○ 采女橋(築地川)
○ 北門橋 別頁
○ 海軍参考館 別頁
○ 訓盲院跡
○ もんぜき通り
○ 築地魚河岸
○ 海幸橋
○ 波除神社 別頁
○ 築地ホテル館 別頁
○ 安芸橋
采女(うねめ)橋は、江戸時代に松平采女正の屋敷があったことから名付けられようです。
現在は、首都高の上を横切るみゆき通りの上に架かる橋です。かつては築地川が流れていました。
<二連アーチ橋>
<親柱と橋銘板>
<高欄「築地ホテル館」と「銀座の柳」>
采女橋の高欄は「築地ホテル館」と「銀座の柳」をモチーフとしています。
<街灯>
<采女橋交差点/采女橋公園前交差点/バス停采女橋>
<采女橋碑>
(プレート文)
「采女橋
このあたりは、江戸前期に松平采女正の屋敷があり、享保9年(1724年)の大火で焼けたあと火除地になって、俗に采女が原と呼ばれました。橋名の由来はここからきたものと思われます。
采女が原は、明治2年に采女町と称する市街地となり、銀座煉瓦街と築地の外国人居留地との間に位置して和洋混合の新興市街地が形成されていったようです。
震災復興時に架け替えられた現在の橋は、当時意匠的に優れていたといわれるアーチが採用されました。また橋の下は昭和37年に築地川から現在の高速道路に姿を変えました。
区では平成2年度に、幻のホテル“築地ホテル館”(明治元年、近代的な様式ホテル第一号として誕生し、栄華を誇ったが明治5年焼失)と“銀座の柳”を題材にした意匠で高欄等を整備しました。
橋梁の諸元
形式 2径間鉄筋コンクリートアーチ橋
橋長 42.0m
有効幅員 15.0m(車道9.0m 歩道3.0m×2)
着工 昭和4年9月
竣工 昭和5年10月
施工者 東京市
平成3年3月 東京都中央区」
<築地川采女橋公園> 中央区銀座6-18-1
采女橋の銀座側に「築地川采女橋公園」があります。
<地図>
<みゆき通り>
みゆき通りとは、明治天皇が海軍兵学校、海軍大学校等々への行幸の際、また浜離宮へのお成りの時、
この通りを行幸路とされたため、「みゆき(御幸)通り」と呼称されるようになりました。
「江戸名所図会 采女が原」
采女橋碑に言及されている采女が原です。
中央に馬場、右上に「萬年橋」、その先に「西本願寺」があります。
<現在の万年橋>
采女橋のすぐ北に万年橋があり、首都高の上を晴海通りが渡ります。
「江戸切絵図」
築地川と築地川東支川部分の抜粋です。
築地川にかかる万年橋の袂に「采女ケ原」とあります。
万年橋下流の采女橋の先で、築地川から築地川東支川が分かれ、隅田川にそそいでいます。
築地川東支川が埋め立てられ設けられた中央区立「市場橋公園」の一角に、
「東京盲唖学校発祥の地・日本点字制定の地」の記念碑が建っています。
公園入口には案内看板があります。
(碑文)
「東京盲唖学校発祥の地
日本点字制定の地
1879(明治12)年 ジョサイア・コンドル設計による校舎完成
1880(明治13)年 楽善会訓盲院として開校
1887(明治20)年 官立に移管 東京盲唖学校と改称
1890(明治23)年 日本点字制定
2010(平成22)年 11月1日建之
筑波大学附属視覚特別支援学校
筑波大学附属聴覚特別支援学校
記念碑実行委員会」
「訓盲院」(明治大正建築写真聚覧 建築学会 昭和11(1936)年 国立国会図書館蔵)
「築地海軍省」(井上安治)
左手の建物は、ジョサイア・コンドル設計の訓盲院かと思われます。
総煉瓦造りの建物だったことが伺えます。
かつて市場橋が架かっていた「もんぜき通り」を越え、市場橋交差点から波除通りを進みます。
○築地魚河岸 中央区築地6-26-1(小田原橋棟) 中央区築地6-27-1(海幸橋棟) HP
築地魚河岸は、築地市場移転に伴って設けられた施設で、波除通りの北に小田原橋棟、南に海幸橋棟があり、
3階の連絡通路で繋がっています。
(連絡橋)
(連絡橋から、波除通りを市場橋方面に望む 築地川東支川の川筋を墨田川方面に望む)
<海幸橋棟屋上広場から>
海幸橋棟屋上広場からは、旧築地市場がよく見えます。
建物が解体され隅田川まで眺望が開けています。
<海幸橋館からの眺望>
海幸橋館の屋上広場の東の階段スペースから、波除神社、築地川東支川の川筋、旧築地市場の眺望です。
「海幸橋」は昭和2(1927)年に架けられた橋で、中央卸売市場の入口にありました。
築地川東支川の埋め立てにともない橋は撤去されましたが、親柱が残されています。
<親柱>
鋼鉄製親柱 海幸橋北東 築地6-20
鋼鉄製親柱 海幸橋南西 築地5-2
石造親柱 海幸橋北西 築地6-27
石造親柱 海幸橋南東 築地5-2 ※土台を残して撤去されています。
<説明板「海幸橋」> 中央区築地6-20
波除神社側に説明板が建てられています。
(説明板)
「海幸橋
海幸橋は、昭和2年に旧築地川東支川の隅田川河口部に創架された鋼下路アーチ橋です。大正12年の関東大震災で日本橋にあった魚河岸が全焼してのち、築地に移転しましたが、これに先立って築地魚市場の入口に新しく架橋された橋でした。
橋梁設計は東京市道路局で、築地川東支川は平成7年に埋め立てられ、橋の本体は同14年に撤去されました。しかし、鋼鉄製親柱2基と石造親柱2基はそのまま記念物として現地に保存されることになりました。
鋼鉄製親柱2基は破損した部材をもと通りに修復し、塗装も創架当時の濃緑色に戻してあります。この鋼鉄製の親柱のデザインと4基の配置は、日本では珍しいオランダのアムステルダム派のデザインの特徴をもっており、点対称に2基ずつ配置されているめずらしい構造です。この橋の親の親柱は昭和初期の橋梁デザインを伝える貴重な近代土木遺産として区民有形文化財に登録されています。
中央区環境土木部 中央区教育委員会」
<築地川東支川筋>
上流と下流
隅田川河口に架かっていたのが安芸橋です。
「東京築地鉄炮洲景」(歌川国輝 明治2(1869)年 国立国会図書館蔵)
「東京築地鉄炮洲景」(歌川国輝 明治2(1869)年)から、安芸橋部分の抜粋の抜粋です。
「波除稲荷社」の下流に「アキバシ」とあります。
「東京三十六景 築地ホテル館」(昇斎一景 東京都立図書館蔵)
築地ホテル館の隣に安芸橋が描かれています。
「東京名所四十八景 築地ホテル館」(昇斎一景 東京都立図書館蔵)
築地ホテル館の隣に安芸橋が描かれています。