Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 築地本願寺

  ○ 錦絵等に見る西本願寺
  ○ 正門・南門・西門・地下鉄口・北門
  ○ 本堂
  ○ 憩いの庭
    ・九條武子夫人歌碑
    ・酒井抱一墓
    ・土生玄碩墓
    ・石塔三基
    ・佃島初代名主 佃忠兵衛報恩塔
    ・大瀛の墓
    ・間新六供養塔
    ・陸上交通殉難者追悼之碑
    ・台湾物故者遺骨安置所
    ・親鸞聖人像
  ○ 築地本願寺和田堀廟所(樋口一葉の墓) 別頁


○築地本願寺 中央区築地3-10-1

 元和3(1617)年、京都西本願寺の別院として浅草に建立され、明暦の大火(明暦3(1657)年)で焼失。
 再建のため江戸幕府から与えられた土地は八丁堀の海の上でした。
 佃島の門徒は、海を埋め立て、土地を築きました。築地の地名の由来となりました。
 延宝7(1679)年に現在地に再建されました。

錦絵等に見る西本願寺>

「江戸名所図会 西本願寺」
 総門に面して、築地川東支川が流れています。
 南向きの本堂の東側を築地川南支川が流れています。
 総門と唐門を結ぶ参道の左右の寺中には、多くの寺が見えます。

  

  

「江戸名所図会 采女が原」
 中央に馬場、右上に「萬年橋」、その先に「西本願寺」があります。

  

「江戸切絵図」
 西本願寺部分の抜粋です。

  

「絵本江戸土産 築地西本願寺」(広重)
 挿絵には「江都の両門跡 東ハ浅草にて西ハ當所なり 御堂の結構言語に絶す 晨より昏に至りて参詣の道俗ひきもきらず 弥陀の本願謬りなし 一たびこの場に詣づる人ハ 天堂に生ずること実に疑ひあるべからず」とあります。

  

「絵本江戸土産 築地御坊/其二」(広重)
 挿絵には「築地御門跡 是を本願寺御門跡といふ 開山親鸞聖人なり 十一月廿二日より廿八日まで 開山ゑまた御講と云て参詣群集おびたたし 當御堂ハ東都におひて真宗第一の御堂なり」とあります。
 其一には「総門」「参道」「唐門」「本堂」が描かれています。手前には築地川東支川が見えます。
 其二には富士山が見えるので、手前の築地川南支川から見た本願寺でしょう。

   

「江戸百景余興 鉄炮洲築地門跡 (名所江戸百景)」(広重)
 「江戸名所図会寒橋」と同じ構図で、広重が描いています。

   

「東都名所築地御門跡」(広重)

  

「東都名所 築地西御堂之図」(広重)

  

「江戸名所百人美女 築地門跡」(豊国・国久)
 こま絵の屋根には、皇室との繋がりを示す菊の紋が見えます。

   

「江戸名勝図会 築地門跡」(二代広重)

  

「築地御門跡之図」(国芳)

  

「築地門跡ノ遠景」(井上安治 明治時代)

  

「築地西本願寺」(東京景色写真版 明治26年)
 関東大震災被災前の西本願寺です。

  


【築地本願寺正門】

 関東大震災後設けられた晴海通りが、境内を真っ二つに貫くこととなり、現在の本堂は西向きに建てられました。
 そして、こちらが正門となりました。

     

<寺紋>

    

「親鸞聖人御誕生八百五十年
 立教開宗八百年
 慶讃法要 築地本願寺」

   

<手水鉢>

 手水鉢「衆水一味浄」。昭和43(1968)年の寄進。

    

   

<石燈籠>

 「光顔巍巍」とあります。

   
 

【南門】国重要文化財

 現在の本堂再建前は、本堂は南を向いて建っていました。
 江戸名所図会を見ると、現在の南門に本堂へと続く「唐門」があります。
 「総門」は、晴海通りを越えて、現在の築地場外市場に見えます。

    

<第一伝道会館>

 南門から入って右手、本堂の右手に「第一伝道会館」があります。
 第一伝道会館には、日本料理店「紫水」があります。

  

 南門から入って左手の守衛所の裏に喫煙所があります。

  
 

【西門】

 西門から入ると、親鸞聖人像の正面に出ます。

   
 

【地下鉄口】

 地下鉄日比谷線の「築地本願寺地下鉄連絡口」があります。

    

<インフォメーションセンター>

 地下鉄口の先にあるのが「インフォメーションセンター」です。

     

 館外に、Photo Spot「蓮の花」があります。
 蓮の花に乗って浮いているような写真が撮れると説明にあります。

   

 館内に「18品の朝ごはん」が人気の築地本願寺カフェTsumugiがあります。

  

 合同墓が地下鉄出口の右手にあります。

  
 

【北門】国重要文化財

 北門から入ると左手、本堂の左手に「第二伝道会館」があります。

   


本堂】

 本堂は、建築家の伊東忠太氏の設計により、古代インド仏教様式の外観で昭和9(1934)年に落成。
 本堂・石塀・三門門柱(正門・北門・南門)が平成26(2014)年に国の重要文化財に指定されました。

(パンフレット)
「現在の本堂は、東京帝国大学(現在の東京大学)名誉教授で建築史家の伊東忠太博士の設計によるものですが、建築研究のためアジア各国を旅した博士と、時を同じく、仏教伝来ルートを明らかにするために探検隊を結成し、シルクロードを旅した大谷光瑞(当時の浄土真宗本願寺派門主)との出会いが縁となっています。」

     

<狛犬>

 狛犬が2対、本堂階段下と上にいます。

     

<国重要文化財>

(説明板)
「重要文化財 築地本願寺本堂一棟
  附正門・北門・南門(各一所)、石塀(五基)
  所在地 中央区築地三丁目一五番一号
 浄土真宗本願寺派(京都西本願寺)の直轄寺院・築地本願寺は、江戸時代初期の元和三年(一六一七)、浅草近くの横山町に創建されました。
 江戸浅草御坊と称された当寺院は、明暦三年(一六五七)の大火で焼失した後、現在地に移転・再建されました。特に本堂の大屋根は江戸湊に人る船の目印であり、江戸庶民によく知られた名所の一つでした。
 江戸時代から明治期にかけて何度か再建された木造の本堂は、大正十二年(一九二三)の関東大震災で焼失した後、昭和九年(一九三四)に現在の本堂(鉄骨鉄筋コンクリート造、地上二階・地下一階)となりました。
 西本願寺二十二世宗主・大谷光瑞の依頼を受けた、設計者の建築家・伊東忠太(一八六七〜一九五四)は、日本の伝統的な寺院様式ではなく、仏教の発祥地であるインドの建築様式を独自の解釈で外観に取り人れ、特異な雰囲気をもっ伽藍を創出しました。
 花崗岩が用いられた建物中央の本堂は、上部に銅板で葺いた巨大な円形屋根がのせられ、左右対称にのびた翼部には鐘楼と鼓楼の塔屋を置き、正面中央と左右の入口には独特の曲線による破風を設けています。内部は伝統的な浄上真宗寺院の本堂形式でありながら、外観各部にはインド風の建築手法が見られ、入口の破風・柱頭飾り・屋根上の尖塔、さらに細部の装飾が一体となり、全体として調和のある外観を創り出しています。
 当寺院本堂は、建築家・伊東忠太が最新の技術を用いて東洋的な建築を追求した典型例であるとともに、秀逸な建築デザインを保持する震災復興期の貴重な建造物といえます。また、本堂とほぼ同時期に建築された外周の石積塀や石造柱門(正門・北門・南門)も共通のデザインを踏襲しており、本堂と一体をなす貴重な建造物となっています。
 これらの建造物は、平成二十六年に重要文化財として指定されました。
  平成二十七年三月  中央区教育委員会」

    

(銘板)
 「国指定重要文化財
  築地本願寺本堂一棟
   附 正門・北門・南門、大谷石積塀
  (以下略)」

  

「伊東忠太肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
 慶応3年10月26日〜昭和29年4月7日(1867年11月21日〜1954年4月7日)
 
  

「大谷光瑞肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
 明治9(1876)年12月27日〜昭和23(1948)年10月5日
 歌人、社会事業家の九条武子は実妹。

  

<ステンドグラス>

 本堂入口にある、蓮の花のステンドグラスです。

   

<本堂内>

  

<パイプオルガン>

 パイプオルガンのあるお寺です。
 昭和45(1970)年に設置されました。

   

<ご朱印>

 「なぜ築地本願瑞には「ご朱印」が置いていないの?」
 「ご朱印とは、追善供養のために写経したものを寺社に奉納した際にいただく受取印が起源なので、
  追善供養を行わない浄土真宗にはご朱印がないのです。」
 代わりに、参拝記念カードと、スタンプが2種類置かれています。

     

<内陣>

   

<パンフレット>

   


憩いの庭】

 新大橋通りに面した「憩いの庭」には、石碑、石仏等の石造物が置かれています。

   

九條武子夫人歌碑>

 昭和9(1934)年、實業之日本社による建立です。

 「おほいなる
   もののちからに
   ひかれゆく
  わかあしあとの
   おほつかなしや
      九條武子」

     

(碑陰)
「才色雙絶ノ九條夫人ハ近代女流ノ第一人者ニシテソノ著無憂華ハ一世ヲ風靡シタ真ニコレ千古不朽ノ名著デアル吾社ハソノ著ヲ刊行シタルノ故ヲ以テ廣ク世ノ讀者ニ諮リ茲ニ斯ノ碑ヲ建立シタ
  昭和九年十一月  實業之日本社社長増田義一識」

  

「九条武子肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
 明治20(1887)年10月20日〜昭和3(1928)年2月7日

    
 

酒井抱一墓> 東京都旧跡

 「等覺院文詮墓」

   

 「抱一上人塔銘」
  明治42(1909)年銘の塔銘です。
  碑の漢文には、宝暦11年7月に生まれ、文化11年11月に亡くなったと記されているので、
  田中光顕による篆額は読めませんが「抱一上人塔銘」と篆額されているのかと思います。

     

(説明板)
「東京都指定旧跡 酒井抱一墓
  所在地 中央区築地三の一五の一 築地本願寺
  仮指定 大正一三年二月五日
  指定  昭和三○年三月二八日
 酒井抱一(一七六一〜一八二八)は、名門酒井雅楽頭家の姫路藩主酒井忠仰の次男として生まれました。明和四年(一七六七)忠因と名乗ります。大名家の習いとして、武術、絵画、俳諧、狂歌などにも親しみました。
 寛政九年(一七九七)、三七歳で西本願寺文如上人に随い出家し、「等覚完文詮暉真」と称します。浅草千束に移住し、抱一と号します。抱一は寛政年間後半ころから尾形光琳の画風に傾倒し、文化一ニ年(一八一五)には、文化六年に移り住んだ下根岸の新居(後の雨華庵)で光琳百回忌を営みました。抱一は、琳派の画風に諸派の技法を取り入れた独特な作風を確立し、粋で瀟洒な江戸琳派を完成させます。代表作として「光琳百図」「四季花鳥図屏風」、「夏秋草図屏風」などがあります。文政一一年、雨華庵で亡くなり、築地本願寺に葬られました。
  平成ニ四年三月 建設  東京都教育委員会」

  
 

土生玄碩墓> 東京都旧跡

 「土生玄碩先生之碑」及び「桑翁土生君之墓」

    

(説明板)
「東京都指定旧跡 土生玄碩墓
  所在地 中央区築地三の十五の一 築地本願寺
  標識  大正十三年一月
  指定  昭和三○年三月二八日
 上生玄碩(一七六ニ〜一八四八)は江戸時代後期の眼科医で安芸国吉田で生まれました。名を義寿といい、桑翁と号しました。文化七年(一八一〇)奥医師を拝命し、同一三年法眼に叙されました。文化五年には一ニ代将軍徳川家慶の眼疾を治療しました。文政一ニ年(一八ニ九)、シーボルトから眼病治療法を教授された謝礼に将軍拝領の紋服を贈ったことで、シーポルト事件に連座し、改易となり、江戸を追放されました。嘉永元年(一八四八)八月一七日、八七歳で死去し、土生家の菩提寺である築地本願寺中眞龍寺に葬られましたが、昭和三年(一九ニ八)一ニ月区画整理のため改葬されました。墓標には「桑翁土生君之墓」とあります。
 著書には、「銀海波抄」、「指談録」、「獺祭録」などがあります。
  平成ニ四年三月 建設 東京都教育委員会」

  
 

石塔三基>

 「遺弟念力」「心悦清浄」「随喜鑚仰」

     
 

<佃島初代名主 佃忠兵衛報恩塔>

  

(説明板)
「佃島初代名主 佃忠兵衛報恩塔
  所在地 中央区築地三丁目十五番一号 築地本願寺
 正保元年(一六四四)に埋め立て造成された佃島(現在の佃一丁目)は、将軍の命で摂津国西成郡佃村・大和田村から江戸に下った漁師たちによって築島されました。島内の地所は、先達を務めた佃村の庄屋・森孫右衛門、実弟・九左衛門、従弟(九左衛門の娘婿)・忠兵衛をはじめ、摂津国からの移住漁師三十数名の割り当て所有となりました。
 その後、孫右衛門は本国佃村で没し、九左衛門は日本橋の本小田原町で魚問屋(「佃屋」)を開いたため、一族の衆望を担った忠兵衛が佃忠兵衛を名乗って佃島の初代名主役を務めました。初代名主の佃忠兵衛は、将軍・幕府への御用漁や佃島の開発とともに、明暦三年(一六五七)の大火で焼失した本願寺の替地の埋め立て(築地)と御堂の再建にも尽力しました。
 境内に立つこの石塔は、佃島の開祖である初代名主・佃忠兵衛の遺徳を称えて、文久元年(一八六一)の二百年忌に十代名主・森幸右衛門勝鎮(九左衛門家が絶家のため七代目から森姓を継承)と親族の佃宇右衛門寛敏が建立した報恩塔です。正面には忠衛の法名と没年(「篤行院釋久西居士」/「寛文ニ年壬寅四月四日享年九十有四歳」)、側面には、開祖の遺徳や代々名主を奉職してきた歴史が刻まれています。
 なお、これまで石塔正面の法名は「森孫右衛門」のものと判断されてきましたが、名主家伝来の記録などから「佃島初代名主 佃忠兵衛」であることが明らかになりました。
   令和二年三月 中央区教育委員会」

  
 

大瀛の墓>

 「贔屓」に乗った亀趺碑です。

   

    

(説明板)
「大瀛(だいえい・一七五九〜一八〇四)
 大瀛和上は、江戸時代後期の浄土真宗本願寺派の学僧です。生まれは安芸筒賀村(広島)。11歳で得度をし、広島報専坊の慧雲に師事して、一七七六年、西本願寺の学林(僧侶の教育機関)へと入り、浄土真宗の教義の勉学に励みました。その後は河内(大阪)、備後(広島)、安芸(広島)、石見(島根)を住職として周り布教活動に勤めました。
 勉学への志が高く、一七九四年に広島城西に学寮・せい園舎を設立して子第の育成に力を注ぎました。
 一七九七年に「三業帰命説」という教義が世に出されると、大瀛和上は『横超直道金剛へい』などを著して反論し、いわゆる「三業惑乱」という法論が起こりました。
 この騒動は江戸幕府が介入するほどの大きな事件となり、大瀛和上は病身のまま京都や江戸に赴き、対論しました。しかし一八〇四年に、当時の江戸築地別院内の成勝寺にて死去されました。
 その後、幕府から「三業帰命説」は異端であるとする審判が下され、そして西本願寺からもこれが認められて、大瀛和上の徳は今日まで多くの念仏者に偲ばれています。」

  
 

間新六供養塔> 東京都旧跡

 「帰真釈宗貞信士霊位 元禄十六癸未 二月四日 間新六墓」

   

(説明板)
「東京都指定旧跡 間新六供養塔
  所在地 中央区築地三の十五の一 築地本願寺
  標識  昭和一三年十月
  指定  昭和三〇年三月二八日
 間新六光風(一六八〇〜一七〇三)は赤穂藩主浅野家臣間光延の次男として生まれます。元禄一四年(一七〇一)三月藩主浅野長矩が殿中刃傷事件を起こし、藩は改易となります。新六は父及び兄光興とともに仇討ちに加わり、元禄一五年一ニ月一四日(一七〇三年一月三〇日)に吉良上野介を討ち取り(赤穂事件)、麻布の長府藩毛利邸へ預かりとなり、切腹します。赤穂義士の墓は主君長矩の墓のある高輪泉岳寺にありますが、新六は義兄中堂又助により、築地本願寺に埋葬されました。泉岳寺にも新六の供養塔がありますが、本願寺に葬られた理由は、檀徒であったのか、生前の意志によるものなのか、不明です。現在のものは、火災により焼失したものを天保五年(一八三四)に羽佐間宗玄が再建したものです。
  平成ニ四年三月 建設 東京都教育委員会」

  
 

陸上交通殉難者追悼之碑>

 「昭和四十四年十一月二十日
  交通事故殉難者追悼碑建設会
   名誉総裁 三笠宮崇仁親王」

    
 

台湾物故者遺骨安置所>

 「台湾物故者の霊」

  

(説明板)
「台湾物故者遺骨安置所建設の由来
 太平洋戦争敗戦とともに、台湾在留の日本人は引き揚げたが、台湾に残された日本人物故者の墓地には誰一人訪れる人もなく放置されていた。
 これら台湾における日本人物故者を悼む多くの方の強い願いによって、昭和三十二年、当時の日本及中華民国、両国政府の合意に基づき、台湾各地に散在する日本人墓地の整理が開始された。昭和三十六年にこれが完了とともに。台北、台中、高雄の三か所に日本人遺骨安置所がつくられ、一万三千余人の遺骨が納められた。
 その後、これら全員の分骨を故国に持ち帰ることができ、これを安置するために昭和三十八年三月「台湾物故者慰霊塔建設会」により、本願寺築地別院(当時)に遺骨安置所が建設された。爾来、その維持管理および年次法要は一般財団法人台湾協会がその掌にあたっている。
 さらに、その後台湾物故者の強い希望もあって戦前故国へ帰還して亡くなった方あるいは台湾縁故者で戦前故国へ帰還して亡くなった方々の遺骨も、昭和六十年九月以降ここに納めている。
 なお、境内整備に伴い、現在、遺骨は合葬墓に納められている。
  平成二十九年四月 一般財団法人台湾協会」

  
 

親鸞聖人像>

 「親鸞聖人 題字
  勝如上人 御染筆」

     

(説明板)
「親鸞聖人
◯誕生と幼少期
 平安時代も終わりに近い承安三年(一一七三)の春、わたしたち浄土真宗本願寺派の宗祖・親鸞聖人は京都にてご誕生になられました。父親は藤原氏の流れをくむ日野有範、母親については現在までよく分かっていません。日野氏は儒学を得意としており、親鸞聖人も六歳頃から漢文の教育を受けていたと推測されます。
 親鸞聖人は九歳のとき、慈円和尚のもとで出家・得度をされ、範宴と名のられたと伝えられています。
◯比叡山での修行
 比叡山では、横川で不断念仏などを修する堂僧として、20年の間、厳しい学問と修行に励まれました。しかし建仁元年(一ニ〇一)親鸞聖人29歳のとき、比叡山では悟りに至る道を見出すことができなかったことから、ついに山を下り、京都の町中にある聖徳太子ゆかりの六角堂にて100日間の参籠をされました。
 95日目の暁、聖徳太子に関する偈文を唱え終ったところに六角堂の本尊である観音菩薩からの夢告を得て、東山の吉水で本願念仏の教えを説かれていた法然聖人の草庵を訪ねられます。
◯吉水での法然聖人との出遇い
 その後、自身が浄土往生できるための縁、すなわちその指導を得るために法然聖人の弟子となられました。聞法と研学に励まれた親鸞聖人は、法然聖人の特別の信頼を得て聖人の主著である『選択本願念仏集』と真影(肖像画)を写すことを許されています。
◯結婚と越後流罪
 親鷽聖人は吉水での生活の中で、京都の三善為教の娘である恵信尼さまと結婚されます。そのころ法然聖人の開かれた専修念仏の教えに対して、延暦寺や奈良の興福寺などから激しい非難が出され、ついに承元元年(一二〇七)に、法然上人や親鸞聖人などの師弟が罪科に処せられ、親鸞聖人は越後国(新潟県)に流罪となりました。これを機に「愚禿親鸞」と名のられ「非僧非俗の立場に立たれます。
〇関東伝道と『教行信証』の執筆
 越後への流罪は、家族を連れての布教活動の始まりとなりました。およそ7年間の流人生活の後、親鸞聖人とその家族は関東へ向かわれることになります。一説には、新興の武士の都である鎌倉での布教を目指したのではないかと考えられています。延保2年(一二一四)、42歳の親鸞聖人は家族とともに、下野国(栃木県)・常陸国(茨城県)の大領主・宇都宮頼綱の領地である稲田へと向かわれました。
 常陸国・稲田に草庵を結んだ親鸞聖人は、そこから約30数km以内の所へ一泊ニ日での布教活動をされたと考えられています。また主著『教行信証』もこの地で書き始められました。
 関東時代後半には鎌倉幕府で行われた一切経校合の事業にも参加されておられ、ここ東京を含む南関東にも多くの由緒を伝える寺院が現存しています。
◯再び京都へ
 親鸞聖人は60?66歳のころ、関東約20年の伝道を終えられて帰洛されます。京都では晩年まで『教行信証』を添削されるとともに、「和讃」など数多くの書物を著され、関東から訪ねてくる門弟たちに本願のこころを伝え、書簡で他カ念仏の質問に答えられました。
 弘長2年11月28日(新暦一ニ六三年一月一六日)90歳、親鸞聖人は三条富小路にある弟尋有の善法坊で往生の素懐を遂げられました。」

  


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