Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 虎ノ門金刀比羅宮


○虎ノ門金刀比羅宮(ことひらぐう) 港区虎ノ門1-2-7

 当宮は丸亀藩の江戸藩邸の邸内社として万治3(1660)年に創建されました。
 その後丸亀藩は毎月10日に限り江戸庶民の参拝を許可しました。

「江戸切絵図」

 丸亀藩の上屋敷と「コンピラ」が記されています。

  
 

「絵本江戸土産 虎の門金比羅社葵坂」(広重)

 挿絵には「讃州丸亀の神社をこの所に摸して霊験ことに新なりとて毎月十日参詣夥し」とあります。

  
 

「名所江戸百景 虎の門外あふひ坂」(広重)

 星空に三日月と雁、堰を落ちる水、榎の巨木のシルエットと葵坂が描かれています。
 寒行裸参りの職人が持つ長提灯に「金比羅大権現」とあり、画面の右手前にあるはずの金比羅宮から出てきたところです。
 葵坂には「二八そば」と「太平しっぽく」の暖かい食べ物の屋台が描かれています。

   
 

「江戸名勝図会 虎の門」(二代広重)

 毎月10日に邸内の金毘羅権現を江戸町民に開放した時の様子が描かれています。
 門付近は大行列となっています。鳥居の霊鳥・霊獣は、金色に彩色されています。

   
 

「東京開化狂画名所 虎の門琴平神社 書生天狗大天狗の鼻ねぢらんとす」(月岡芳年 都立図書館蔵)

 工部大学校の時計塔と校舎が描かれているので、書生天狗は工部大学校(こちらで記載)の学生でしょう。
 学生は官費生として厚遇を受けていました。
 工部大学校の学生になれて天狗となり、神社の眷族である大天狗に悪戯するとは良くないですね(自分の解釈)。

  
 

<社業標/正面鳥居>

 「社号標」には、「金刀比羅宮 海軍大将 加藤寛治敬書」とあります。

   

(掲示)
「虎ノ門金刀比羅宮縁起
当宮は虎ノ門金刀比羅宮と稍し東国名社の一
創祀は万治三年(一六六○)讃岐丸亀城主京極高和の時邸を愛宕下に移し
同時遷座 延寶七年(一六七九)なり
爾来御神威愈々広く
大衆の信仰として親しまれ
豊漁万帆 海陸安穏 福徳守護の御神徳は当宮の
御神紋丸金と共に益々篤きものなり
御祭神 大物主神 崇徳天皇
大祭  十月九日・十日
初こんぴら 一月十日
御縁日 毎月十日」

  
 

<裏鳥居>

 提灯には神紋の「○に金」と、もう一つの神紋「天狗の葉団扇」が描かれています。

    
 

<銅鳥居> 港区文化財

 円柱の霊鳥・霊獣は、江戸時代には金色に彩色されていました。

    

     

(標柱)
「港区指定有形文化財・建造物 銅鳥居
この銅鳥居は、虎門外の讃岐丸亀京極家(約五万石の大名)の江戸屋敷に勧請された金毘羅宮(現金刀比羅宮)の鳥居です。文政四年(一八二一)十月に奉納された明神型鳥居で、「金刀比羅大神」の扁額が掲げられています。円柱には青竜・玄武・朱雀・白虎の霊鳥・霊獣が飾られ、下部には奉納関係者の名前が刻まれています。願主・世話人の多くは芝地域の商人と職人でしたが、江戸市中の地名・人名もみられます。
江戸では諸藩邸内の神仏を一般に公開し、賽銭収入も期待されていたようです。江戸庶民の信仰を反映したこの派手な鳥居は、当時の人々の宗教的・文化的活動の実態を示す貴重なものです。
  平成十三年十月二十三日指定 港区教育委員会」

     

<新吉原奉納>

 銅鳥居には、新吉原の各町の遊郭が数多く刻まれています。
 文政四年(1821年)奉納の願主に3名の名があります。
 そのうちの1人が新吉原京町1丁目「若松屋藤右エ門」
 世話人に「新吉原角町 松葉屋半蔵」とあります。
 仲ノ町には、ここにも「駿河屋市兵衛」の名があります。
 新鳥越2丁目には、「岡田屋忠七」「八百屋善四郎」の名があります。

     
 

<百度石> 港区文化財

 元治元(1864)年銘の百度石です。
 百度石のてっぺんはつるつるに光って、賽銭がおかれています。

     

(標柱)
「港区の文化財 金刀比羅宮 百度石
百度石は、いわゆる「お百度参り」の際に用いられたもので、神殿とこの石の間を往復して願掛けをしました。願掛けの一種である「お百度参り」は、江戸時代に盛んに行われましたが、特に都市部に目立つ個人祈願の一形態で、その多くは病気治癒の願掛けであったといわれます。
正面に「百度石」、背面には「大願成就 願主□心道 元治元甲子年(一八六四)十に月吉日」の銘があり、願がかなえられたお礼に建てられたものであることがわかります。
こうした百度石が保存されているのは、区内では非常に珍しく貴重です。
  平成九年三月十一日 港区文化財総合目録登録」

  
 

<社殿> 東京都選定歴史的建造物

 神紋の「○に金」と、「天狗の葉団扇」が見えます。

   

(説明板)
「東京都選定歴史的建造物
 虎ノ門金刀比羅宮
   所在地 港区虎ノ門一丁目2番7号
   設計者 伊東忠太
   建築年 昭和26年(1951)
 讃岐丸亀藩主の京極高和が領地・讃岐の金刀比羅大神を、万治3年(1660)に三田の江戸藩邸に邸内社として勧請、その後延宝7年(1679)に現在の地虎ノ門に移る。こんぴら人気が高まった文化年間に京極家では毎月10日に限り一般の参詣を許し、大変賑わったといわれる。
 社殿は権現造りで、第二次世界大戦により焼失したが、拝殿、幣殿の部分は昭和26年(1951)に再建された。ともに総尾州檜造り、銅板葺きである。日本最初の建築史家、伊東忠太の設計校閲による建物で、我が国古来の建築技法が随所に用いられている。
 なお、幣殿奥の本殿は、昭和58年(1983)に復興されたもので、鉄筋コンクリート造、銅板葺きとなっている。
  東京都生活文化局」

  
 

<結神社>

  
 

<喜代住稲荷神社>

 2社の間に由来がわからなかった石碑があります。

   
 

<社務所>

 平成16(2004)年に、境内に虎ノ門琴平タワーが完成し、社務所はその一階にあります。

  


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