【薬学部】
○ ミュルレル像
○ 下山順一郎像
○ 医学部薬局の基礎
薬学部の東側の木立の中に置かれています。
明治4(1871)年、明治政府の招聘により、テオドール・ホフマンとともに来日。
(説明板)
「Dr. Leopold Muller
ドクトル レオポルド・ミュルレル 1824〜1893
1869(明治2年)、明治新政府はドイツ医学の採用を決定し、ドイツ北部連邦公使に2名の医学教師の派遣を要請した。1871(明治4)年8月、ミュルレル(陸軍上等軍医正・外科)とホフマン(海軍軍医正・内科)が来日し、下谷和泉橋の東校(東京大学医学部の前身)に着任した。ミュルレルは1824年ドイツのマインツ生まれ。ボン大学とベルリン大学で医学を学び、プロシア陸軍軍医学校教官、普仏戦争では野戦病院長を務めた。文部卿(大臣)直属のミュルレルとホフマンはわが国の医学教育に全権をもち、過酷なまでに峻厳な改革を行った。約300名の東校の在学生は59名を残して退学とし、新たに予科3年(翌年2年に変更)、本科5年の過程を定めた。また「薬学」は医学と密接に連携する自然科学の独立分科であるとし、製薬学校設立を提案した。これにより1873(明治6)年第一大学区医学校に製薬学科(東京大学薬学部の前身)が設置された。ミュルレルは3年間の契約終了後、1875(明治8)年に帰国、1893年にベルリンで没した。三回忌にあたる1895(明治28)年10月、日本の医学・薬学の恩人として、胸像(制作 藤田文蔵)をこの高台に設置した。胸像は戦後盗難にあったが、1975(昭和50)年に復元された。」
<ホフマン>
ホフマンは、西郷隆盛の主治医を務め、脂質異常症の西郷隆盛に対して、
食事制限、下剤、犬を連れて毎日8kmの散歩をすることの3つの治療法を行っていました。
上野公園の西郷隆盛像が犬を連れているのは、犬を連れて毎日8kmの散歩をする治療の一環です。
ミュルレル像の奥に置かれています。
(説明板)
「下山順一郎 1853〜1912
1853(嘉永6)年尾張犬山で生まれた博士は、1870(明治3)年犬山藩の貢進生に選ばれ大学南校(東京大学の前身)に入学した。1873(明治6)年9月学則の改正により、第一大学区医学校製薬学科(東京大学薬学部の前身)に転学し、1878(明治11)年3月同学科の一期生として卒業、医学部第一回学位授与式では卒業生を代表して答辞を朗読した。博士は1886(明治19)年、かつて3年間留学したドイツのストラスブルク大学よりDoktorder
Philosophie、1899(明治32)年にはわが国の薬学博士第1号を授与された。博士は1881(明治14)年医学部助教授、1887(明治20)年医科大学薬学科教授、1893(明治26)年薬学第一講座(生薬学)教授として、教育・研究に尽力されると同時に、東京薬学会(現日本薬学会)の創立や、私財を投じた薬草園(是好薬園)の開設等を通し、後輩の育成にあたった。博士は、在職中の1912(明治45)年2月急逝。先生を偲ぶために1913(大正2)年薬学科教室玄関脇に銅像(制作 武石弘三郎)を設置した。その後建物の整備に伴い、この場所に位置を変更した。」
下山順一郎 薬学教授(東京帝国大学 小川一真 明治33年・明治37年)
博物館増築時に基礎が出土し懐徳門脇に保存されています。
(説明板)
「医学部薬局の基礎
このレンガ積は明治45(1912)年までに建設された旧帝大医学部薬局の基礎で、2002年の薬学系総合研究棟の発掘調査で出土したものである。
レンガ建造物は、一般的に外壁、外壁腰部の上部構造と地中基礎の下部構造から構成されるが、調査では、外壁腰部と地中基礎部分が確認された。
このレンガ積みは「イギリス積」と呼ばれる工法で構築され、深さ約1.8m、幅0.7mの溝掘削した後、溝の中にセメントを流した上にレンガが積まれていた。医局基礎の北側は砂利と泥を混ぜた上にコンクリートを流し込んでいるのに対し、南側は砕石の上に流し込まれており、構造上の違いが認められた。
使用されたレンガは、型枠にレンガ粘土を入れて叩きこんで整形したいわゆる「手抜きレンガ」で、桜の刻印がある小菅収監製が使用されていた。ちなみに前田侯爵邸懷徳館のレンガ基礎には日本煉瓦製造会社製の機械整形レンガが使用されている。」