【農学部】
○ 上野英三郎博士とハチ公
○ 東京大学農学資料館
○ 朱舜水先生終焉之地碑
平成27(2015)年3月8日、ハチ公没後80年目の命日に「上野英三郎博士とハチ公」像が建てられました。植田努の作です。
ハチは、駒場にあった農学部に、毎日上野博士の送り迎えをしました。出張の時には渋谷駅に送り迎えをしました。
上野博士が大学内で急逝し、ハチは上野博士に会えなくなりました。
賢いハチは、しばらく会えない時は、毎日送り迎えをした駒場ではなく、渋谷駅に行けば会えると思い、毎日渋谷駅に通うようになりました。
(説明板)
「上田英三郎博士(1872〜1925)とハチ公(1923〜1935)
秋田犬のハチは大館市に生まれ、生後50日ほどで東京帝国大学農学部の上野英三郎博士(農業工学・農業土木学)に贈られた。犬好きだった博士は、ハチを大切に育て、大いに可愛がり、当時は駒場にあった農学部への通勤や渋谷駅からの出張にはいつも送り迎えをさせた。学生たちは教授の飼い犬を呼び捨てにすることをはばかり、「ハチ公」と呼んで敬意を表した。およそ1年半が過ぎた1925年5月21日、博士は大学構内で急死した。それからハチは死ぬまでのおよそ10年間、朝夕に渋谷駅に通い、博士の姿を探し求めた。生前、博士が長期出張から渋谷駅に戻った時、改札口で一人待つハチに驚き、この像のように、互いにじゃれ合って喜んだという。 製作:植田努 2015年」
農学資料館は、東京大学弥生キャンパスの農正門から入って右隣にあります。
開館時間は、9:00〜17:00。
<ハチ公の日> HP
毎月8日(ハチ公の日)はグッズ販売日となっています。
<上野英三郎先生の像>
(説明板)
「上野英三郎先生の像
上野英三郎先生は、東京大学において1900年(明治33年)に農学第2講座分担を開始され、1911年(明治44年)に農業工学講座の担任?授に就任、1925(大正14年)年まで教鞭をとられた。上野英三郎先生のご功績は、整然とした耕地の区画整理の考え方と技術を教育・指導されたことにあり、その結果は日本の原風景とも呼ぶべき美しい水田風景となって、現代人の目に映っている。なお、上野英三郎先生は、有名な渋谷の忠犬ハチ公の飼い主である。1987年、新藤兼人原作・脚本の映画「ハチ公物語」で仲代達矢が演じた東大教授が上野?授であったことを付記する。」
「ハチ公と上野英三郎博士像」
「上野英三郎博士とハチ関連年表」
「ハチ公の死因」
フィラリアは中程度で死因とはならず、心臓癌と肺に転移した癌が死因のようです。
「朱舜水先生終焉之地碑」は、朱舜水来日250年を記念し明治45(1912)年に朱舜水記念会によって建立されました。
碑の周囲には朱舜水が愛した桜が植えられました。
碑文は第一高等学校校長新渡戸稲造の揮毫です。碑は移動の末、現在の歩道橋脇に建っています。
建碑式には、第一高等学校の生徒として芥川龍之介も参加しています。
「朱舜水」(1600〜1682年)は、明の儒学者で、明の滅亡に際し援助を求め7回長崎に来日し、清の成立に伴い亡命しました。
長崎に留まっていた朱舜水を徳川光圀が、寛文5(1665)年に水戸藩へ招聘、寛文8(1668)年から水戸藩中屋敷に居住します。
朱舜水は水戸藩へ儒学や史料編纂など伝え、水戸学へ影響を与えました。また、他藩の学者とも交流しました。
(表)
「朱舜水先生終焉之地」
(裏)
「明治四十三年六月二日建之
朱舜水記念會」
(説明板)
「東京都指定旧跡 朱舜水記念碑
所在地 文京区弥生一の一 東京大学農学部
標 識 昭和一二年九月二二日
指 定 昭和三○年三月二八日
朱舜水(一六○○〜八二)は日本に帰化した明の遺臣です。名は之瑜、舜水は号です。祖国明の復興を図るが果たせず、万治二年(一六五九)長崎に来た際、柳川藩の儒学者安藤省庵の援助を受けて亡命しました。寛文五年(一六六五)、小宅生順の推挙で水戸藩の賓客となり、水戸藩徳川家の中屋敷(現在の東京大学農学部の南東側)に入り、生涯この地で過ごします。学風は朱子学・陽明学の中間といえる実学(実行の学)で、空論を避け、道理を重んじ、水戸光圀や安積澹泊、林鳳岡、木下順庵らに大きな影響を
与えます。天和二年(一六八二)に八三歳で没し、常陸太田の瑞竜山に葬られました。
この記念碑は、日本渡来二五○年祭にあたり水戸藩邸内に朱舜水記念会が建てたものですが、農学部内で移転をしています。そのため、現在記念碑が設置されている農学部正門付近は水戸藩邸の区域ではありません。
平成二四年三月 建設 東京都教育委員会」
「江戸切絵図」
水戸藩中屋敷部分の抜粋です。