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 東灌森稲荷神社


○東灌森稲荷神社 北区東田端1-11-1

 太田道灌が長禄元(1457)年、江戸城築城の際に方除け守護神として江戸周辺に祀った「方除け七稲荷(道灌七稲荷)」の一つです。
 (道灌七稲荷=柳森稲荷社 烏森稲荷社 杉森稲荷社 雀森稲荷社 吾嬬森稲荷社 宮戸森稲荷社 東灌森稲荷神社)
 新たに建て替えられて半分はコインパーキングとなっています。
 かつて入口にあった吉原遊郭の尾張屋彦太郎奉納の石鳥居はなくなりました。

     
 

<御事歴>

「御事歴
 当神社は、長録元年(一四五七年)江戸城を築いた太田道灌公が方除けの守護神として、江戸周辺に七つの稲荷社を祀ったとされるうちのひとつで、当初、城の鬼門除けにと柳の森を植樹し、ここに鎮守として京都伏見稲荷より勧請し祀られ、神田川の対岸にあったが、万治二年築城の際に現在地に奉還された。御手清鉢台は、徳川家斉時代の文化十一年(一八一四年)に建設され、当時は吉原遊女の逃亡伝説から別名「足留め稲荷」とも呼ばれ、入口の石鳥居は吉原遊郭の尾張屋彦太郎が奉納したものである。かつて道灌山脈の麓にあり、街道から橋を渡って山道を通り境内に入るようになっており、敷地面積は五百有余坪で、石の鳥居が二基あり、たくさんの旗が両脇に立っており、江戸町民に強く信奉されたと伝えられている。田端駅南口に「不動坂」という坂があり、かつては滝が流れ、そこに不動明王が祀られ、その崖下に「東灌森稲荷神社」があったと伝えられる。鉄道建設に伴い旧神田製鉄所北側に移設された後、昭和二十四年(西暦一九四九年)、道路整理により再度移転し現在地へと鎮座している。現在の北区東田端は、関東大震災や第二次世界大戦などを経て工場密集地帯として発展を遂げた。参道の鳥居は、昭和四十年代(西暦一九六五年から一九七四年)頃に建てられ、長年の経年劣化により、入口と参道の鳥居及び本殿地を含めた神社全体の老朽化や腐植が進み、多くの参拝者や近隣の方々に惜しまれつつも、一度すべてを取り壊して建直すことになりました。関係各位、奉納者様方のご支援ご協力を賜り、当社全体の規模を縮小して修復し再建築を行うとともに境内の整備を行ない、現在のような当社に変遷を遂げています。
  令和四年三月吉日」

   
 

<社殿>

 現在の社殿は、昭和41(1966)年12月の造営です。

     

   
 

<子安観世音>

   
 

<がちゃがちゃ>

 御守りとおみくじは、がちゃがちゃによる授与です。

     
 

「しんよし原江戸町一丁目尾張屋彦太郎内誰袖」( 国立国会図書館蔵)

  


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