Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 ○ 願生寺と牛供養塔


○願生寺 港区高輪2-16-22 HP

 「高輪大木戸跡」から旧東海道(国道15号)を南に行くと、右側に願生寺があります。
 願生寺は、かつての高輪牛町(芝車町)にあり、門前には牛屋が建ち並んでいました。
 牛屋七家によって建立された牛供養塔があります。
 寺HPは、ポイントを得た丁寧なつくりで感心します。

「江戸切絵図」

 江戸切絵図に高輪大木戸の南に車町と願生寺がみえます。

  

<山門>

 鉄門に葵紋が見えます。
 「山門が閉まっていても脇の扉から入ってご見学いただけます。」と寺HPに案内があり、脇扉から境内に入ります。

     

<供養塔二基>

    

<牛供養塔> 港区文化財

 牛供養塔は、車町の牛屋七家によって、牛供養のため元文3(1738)年に建立されたのを初めとします。

 (正面) 「南無阿弥陀仏」(祐天上人の書を写し刻む)

    

 (左側面及び右側面)

     

<二千七百六十人之霊供養塔> 港区文化財

 2,760人の無縁の霊の供養のために、文政13(1830)年に建立された供養塔です。
 碑正面には祐天上人の筆跡を写した「南無阿弥陀仏」の文字が彫られています。

     

<三界萬霊塔>

 六地蔵が陽刻されています。

     

<無縁塔>

 供養塔の後方の無縁塔です。

  

<説明板>

 門前に説明板「牛供養塔及び二千七百六十人之霊供養塔」があります。

(説明板)
「港区指定有形文化財 歴史資料
 牛供養塔及び二千七百六十人之霊供養塔
 牛供養塔は、願生寺門前の車町の牛屋七家によって、牛供養のため元文三年(一七三八)に建立されたのをはじめとします。車町は属に牛町ともいい、江戸幕府が江戸城増築などの際に重量物の運搬をするために招いた京都牛町の牛屋をこのあたりに常住させていました。現在の塔正面に刻まれた「南無阿弥陀仏」の題字は江戸時代中期の高僧祐天上人(一六三七ー一七八)の書を写し刻んだもので、文政十一年(一八二八)に建立されたものです。祐天は、将軍から庶民にいたるまで生き仏として尊敬された人物で、その功徳を願って筆跡を写し、建てられたものと思われます。
 二千七百六十人之霊供養塔は、元禄二年(一六八九)から文政十三年三月十五日日までに無縁となった人々の霊の供養のために文政十三年に建立された供養塔です。碑正面には牛供養塔と同様に祐天上人の筆跡を写した「南無阿弥陀仏」の文字が彫られています。
 江戸で唯一の牛町の存在を伝える歴史資料として、また庶民の信仰を示す資料としても貴重といえます。
  平成二十年九月九日指定  港区教育委員会」

  

<地蔵堂/朝日地蔵>

 狛犬ではなく石羊がいます。これは、満州方面の工芸品を檀家が寄進したもの(寺HPに記載)。
 地蔵堂には延命地蔵尊が祀られています。
 かつては朝日地蔵と呼ばれ、北東向きに建てられた地蔵堂の東に円形の窓があり、差し込む朝日の中に浮かぶように見えたことに由来したそうです。
 「江戸南方四十八所地蔵尊参」の二十一番に数えられました。

    

   

<鐘楼>

 戦時供出から戻ってきた宝永7(1710)年鋳造の梵鐘です(寺HPによる)。

   

<水盤>

  

<本堂/扁額>

   


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