Discover 江戸史蹟散歩
 
 田端

  ○東覚寺坂
  ○東覚寺


東覚寺坂 北区田端2-7

 「田端切通し」の西側にそって台地へ上る急坂が東覚寺坂です。
 東京都が設置した標識が建っています。

(銘文)
「東覚寺坂
 田端切通しにそって台地へ上る急坂で、昔は田端八幡神社の別当寺東覚寺墓地への参道で、「東京府村誌」に長さ二十間、広さ一間三尺」と記されている。寺の前には、二基の大きな仁王の石像があり、病のある部分に赤紙を貼ると、病がなおると信仰されており、谷中七福人の一つ、福禄寿も祀ってある。蜀山人の狂歌「むらすずめさはくち声もももこえもつるの林の鶴の一声」の碑がある。」(「江戸名所図会 田端八幡宮」の挿絵が掲示されています。)

   

    

  


東覚寺 北区田端2-7-3 HP

 白龍山寿命院東覚寺と号します。
 御府内八十八ヶ所霊場第66番札所、九品佛順礼霊場第2番、
 西国三十三観音霊場第29番松尾寺本尊馬頭観音うつしです。

<赤紙仁王> 北区文化財

 全身に赤い紙が貼られている寛永18(1642)年銘の赤紙仁王のインパクトが強烈です。

    

    

(説明板)
「東京都北区指定有形民俗文化財 赤紙仁王(石造金剛力士立像)
  北区田端2-7-3 東覚寺
 参詣客が赤色の紙を貼るため‘赤紙仁王’の名でよばれるようになった東覚寺の金剛力士立像は、吽形像の背面にある銘文から、寛永18年(1641)8月21日、東覚寺住職賢盛の時代に、宗海という僧侶が願主となって造立されたことが分かります。一説によれば、当時は江戸市中で疫病が流行しており、宗海は、これを鎮めるために造立したのだそうです。
 参詣客が赤紙を貼る理由は、そのようにして祈願すれば病気が治ると信じられてきたからで、具合の悪い部位と同じ箇所に赤紙を貼るのが慣わしです。また、祈願成就の際には草鞋を奉納すべしとされています。ただし、赤紙仁王に固有のこうした習俗が発達したのは明治時代のことで、その背後には、仁王像を健脚や健康をかなえる尊格とみなす庶民独自の信仰があったと考えられます。なぜなら、かつて日本各地には病気平癒を祈願して行う類似の習俗があったからです。そのため、赤紙仁王は、文化形成における庶民の主体性や独自性を強く表現した作品でもあるのです。
 なお、赤紙仁王は、江戸時代の末までは田端村の鎮守である八幡神社の門前にありました(左図)。しかし、明治初期の神仏分離を機に、かつて東覚寺にあった九品仏堂の前に移され、以後はそこで人々のお参りをうけてきました。また、平成20年10月には、道路拡張工事のため従来の位置から約7メートル後方に移動し、平成21年8月に竣工した新たな護摩堂とともに、今後の世の趨勢を見つめてゆくことになりました。
  平成21年9月 東京都北区教育委員会」

   

<赤紙仁王尊>

 東覚寺の説明板には、赤紙がはがされた仁王尊の写真が掲示されています。

(説明板)
「赤紙仁王尊
 石仏仁王の背銘に「施主道如宗海上人東岳寺賢盛代、寛永十八辛巳天八月廿一日」と刻まれている。西暦一六四一年より露仏で立っていることになる。仁王は、本来清浄な寺院の境内を悪から守る金剛力士として山門の両側に立ち、仏法僧の三宝を守護するものであるが、この赤紙仁王は、当時江戸市中に流行していた疫病を鎮めるため宗海上人が願主となって建立されたもので、いつのころからか赤紙(悪魔を焼除する火の色)を自分の患部と同じ箇所に貼って病気身代わりと心身安穏を願うようになった。
 右の阿像は口を大きく開けて息を吸い込んでいる状態即ち「動」を表し、左の吽形は口をしっかりと結んで息を止めている状態即ち「静」を表している。阿吽の姿は密教で説く、胎蔵界、金剛界の二界を表し、又宇宙一切のものの始めと終りを表している。阿像から吽像 へと祈願し、満願のあかつきにはお礼として草鞋を奉納する。祈願者、病人を見舞うため日夜歩かれるのでさぞかし草鞋が必要であろうというおもいやりからである。
  白龍山 寿命院 東覚寺 山主」

  

     

<草鞋奉納/護摩堂>

 多くの草鞋が奉納されています。
 護摩堂は、平成21(2009)年8月に竣工、平成22(2010)年2月に落慶、不動明王が祀られています。

    

「江戸名所図会 田端八幡宮」(国立国会図書館蔵)

 「八幡宮」及び「東覚寺」が描かれています。
 右下には「与楽寺」が見えます。
 「八幡」の閉ざされた門前には一対の仁王像が見えます。

   

「御府内八十八ヶ所道しるべ」(国立国会図書館蔵)

 「大師」が描かれ、「八幡」の門前に仁王像が描かれています。

   

「江戸切絵図」

 東覚寺と八幡宮が記載されています。

  

<石造不動明王像>

 護摩堂の横に、石造不動明王像(左に制多迦童子、右に矜羯羅童子)が祀られています。

  

<育児地蔵>

  

<六地蔵>

  

<山門>

 寺号標
 「真言宗豊山派 東覚寺
  弘法大師霊場 第六十六番」
 「白龍東覚寺 本尊不動明王 七福神安置」

 江戸時代には徳川歴代将軍の祈願所として栄え、寺紋に「葵の紋」を賜っています。

     

<脇門>

 「真言宗豊山派 白龍山東覚寺」

  

【境内左手】
<馬頭観音>

  

<鼓翼平和観音像>

「鼓翼平和観音像
 興教大師八百五十年御遠忌を記念して左記の篤信者より建立されました。名称は住職宏信の恩師である滝野川第一小学校田邊廣世先生が、戦時四萬温泉に集団疎開をした酉歳生まれの児童達に将来を託して名づけられた“はばたき”会に由る。同窓には名優児玉清君がいる。」

   

<宝篋印塔>

  

<石塔など>

  

 享保3(1718)年の庚申塔
   

 西國廿九番丹後松尾寺写
   

 九品佛 第二番 阿弥陀如来
   

 阿弥陀仏 第二番之寺
   

 南無遍照金剛の台座に載る二宮金次郎
   

 弘法大師像
  

 文殊菩薩
  

 大師稚児像
  

 大日如来
   

【境内右手】
 弘法大師千百伍拾年御遠忌記念之塔
  

 石庭
   

 千手観音
  

 観音頭部
  

 水子地蔵
  

<雀供養之塚>

 文化14(1817)年建立、蜀山人(太田南畝)の狂歌が彫られています。
 「むらすずめさはくち声もももこえもつるの林の鶴の一声」

      

 犬猫之墓
  

 炭化した切株?
  

 手水鉢
  

 弘法大師一千五十年遠忌供養塔(明治十七年三月廿一日)
   

<本堂>

 狛犬は鈴を首にかけています。

     

 本堂内には閻魔大王も祀られているようです。「江戸東京四十四閻魔」の第三十五番です。

   


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