橋際から駿河台に登ると一口(いもあらい)稲荷があり、一口橋と呼ばれました。
元禄4(1691)年、5代将軍綱吉の命で孔子廟が設けられてからは、昌平橋と呼ばれました。
昌平橋の下流の「筋違橋」とともに、中山道・日光御成道の主要通路として利用されていました。
神田川上流 神田川上流 神田川下流(万世橋)
<昌平橋>
(説明板) 千代田区外神田1-1-1
「昌平橋は、江戸城外堀(現在の神田川)に架かる橋の一つで、1624〜44年(寛永年間)に架けられたと伝えられています。橋際から駿河台に登ると一口(いもあらい)稲荷(現在の太田姫稲荷神社)があり、一口橋とも呼ばれました。他にも、相生橋という呼称もありました。その後、1691(元禄4年)に湯島に孔子廟が設けられてからは、孔子誕生地の昌平郷にちなんで昌平橋と呼ばれるようになりました。
少し下流にあった筋違門とともに、中山道・日光御成道の主要通路として利用されており、橋の南側は「八つ小路」と呼ばれる広場として賑わいました。
(「絵本江戸土産」昌平橋」を掲示)
千代田区」
「江戸切絵図 駿河台小川町絵図」
「アワジザカ」「太田姫稲荷」が画かれています。
(参考)説明板に言及の一口稲荷(太田姫稲荷)については、こちらで記載。
「江戸名所図会 筋違八ツ小路」
八つ小路、中山道、筋違橋、昌平橋がまとめて描かれています。
「名所江戸百景 昌平橋聖堂神田川」(広重)
「絵本江戸土産 昌平橋聖堂」(広重)
「名所江戸百景 昌平橋聖堂神田川」と「絵本江戸土産 昌平橋聖堂」
神田川の下流と上流からと異なったアングルで描かれています。
「江戸名勝図会 昌平橋」(二代広重)
神田川の上流から描かれています。
「明治初年の神田昌平橋」(実写奠都五十年史 大正6年)
江戸時代の木造の昌平橋の写真がありました。
(写真コメント)
「旧江戸城外郭の一部にして遠く見ゆるは駿河台なり明治初年廃せらる」
<神田旅籠町>
(説明板)
「千代田区町名由来板 神田旅籠町
この周辺は、かつて神田旅籠町と呼ばれていました。
昌平橋の北側にあたるこの地は、中山道の第一の宿場である板橋宿、日光御成街道の宿場町である川口宿への街道筋として、旅籠が数多く立ち並んでいたため、「旅籠町」と呼ばれるようになったと伝えられています。
江戸幕府は、五街道のなかでも、遠く京都に通じる東海道と中山道の整備にとくに力を入れていました。また、日光御成街道は将軍が日光参拝の際、必ず通った街道で、現在の国道122号にほぼ相当します。こうした二つの重要な街道の拠点となる町が旅籠町だったのです。
しかし、天和二年(1682)に江戸で大火事が起こります。浄瑠璃や歌舞伎でも有名な「八百屋お七」の大火です。もともとあった旅籠町はこの火災で類焼し、北側の加賀金沢藩邸跡地に替地を与えられました。そして元禄七年(1694)には、浅草御門の普請のため、馬喰町・柳原周辺の町が代地を与えられ移転しています。これを機に旅籠町にも一丁目と二丁目ができました。さらに、明治二年(1869)には、昌平橋と筋違橋の北側にあった幕府講武所付町屋敷が神田旅籠町三丁目と改称されました。
さて、旅籠町の由来となった旅籠ですが、幕末のころにはほとんど姿を消しています。『諸問屋名前帳』によれば、嘉永(1848〜1854)のころまで残っていた旅籠は、わずか一軒だけとなり、代わりに米や炭、塩、酒を扱う問屋が増えていたことがわかります。街道筋の宿場町として誕生した旅籠町は、その後、活気あふれる商人の町として成長をとげたのです。」