鈴ヶ森刑場は、慶安4(1651)年に開設されました。
元禄8(1695)年の検地によると、間口40間(約73メートル)、奥行き9間(約16メートル)であったとされますが、
第一京浜の拡幅等により旧態を留めていません。
鈴ヶ森刑場跡は、現在は、大経寺の境内となっています。
刑場跡には、処刑に用いられたとされる台石、首洗いの井戸などが残されているほか、
天災や戦火で被害を受けた地元民や家畜の供養塔が自然に集められるようになり、
「馬頭観音」「水難供養塔」「鯉塚」「六十六部供養塔」などが建ち並び、
地元の人たちにとって、あらゆる死者を供養する神聖な場となっています。
「江戸名所図会 鈴の森」
江戸を目指す大名行列が鈴ヶ森の脇を通過しています。江戸湾には海苔のヒビが見えます。
海岸の右に「磯馴松」、左に鈴ヶ森刑場が見えます。
鈴ヶ森刑場には2本の柱が見え、最初、磔と火炙の木柱かと思いましたが、
左の柱上には像が見えます。昔の写真を見ると、左は像がのる供養塔、右は題目供養塔であることがわかります。
「鈴ヶ森 行列之図」(豊原国周 足立区立郷土博物館蔵)
右手に鈴ヶ森刑場の大きな題目供養塔が見えます。
「東海道名所風景 東海道鈴ケ森」(二代広重)
タイトルは東海道鈴ヶ森ですが、刑場は見えません。
「旧江戸品川鈴ヶ森刑場之図」(司法制度沿革図譜 朝鮮総督府法務局 1937年)
刑場前には、海岸が目の前に迫っています。
「鈴ヶ森」(旅の家つと第12 明治32(1889)年)
東海道を人力車が行きます。大きな松の右手が鈴ヶ森刑場でしょうか。
<現在の鈴ヶ森刑場跡全景>
鈴ヶ森刑場跡は旧東海道と第一京浜が合流する地点にあります。
<しながわ百景>
「鈴ヶ森刑場跡と大経寺」は、しながわ百景に選定されています。
「区政40周年・区民憲章制定5周年記念
しながわ百景
鈴ヶ森刑場跡と大経寺
昭和62年 品川区」
<道標>
「二十五番 大経寺 東海道鈴ヶ森口
左 大森海岸駅 大森駅
右 立会川」
<標柱>
標柱「東京都史蹟鈴ヶ森刑場遺跡」
「当地は、東海道に面し、慶安四年(一六五一)江戸幕府により設けられた。「鈴ヶ森刑場」遺跡で 歌舞伎や講談に登場する、丸橋忠弥・平井権八・八百屋お七等の処刑地として有名である。境内には、処刑に使用された台石や井戸、供養塔が点在し、東京都史跡として、品川百景にも指定される江戸刑制史上重要な文化財遺跡となっている。
平成四年二月二十三日 鈴ヶ森史跡保存会」
<標柱「都旧跡 鈴ヶ森遺跡」>
(説明板)
「東京都指定旧跡 鈴ヶ森遺跡
所在地 品川区南大井二の五の六附近
史蹟指定 昭和二九年一一月三日
旧跡指定 昭和三○年三月二八年
鈴ヶ森遺跡は品川宿の南、東海道沿いに慶安四年(一六五一)に開設された御仕置場の跡です。大井村鈴ヶ森の刑場は、東海道に面し、規模は元禄八年(一六九五)実施の検地では間口四〇間、奥行き九間であったとされます。東海道(現在は第一京浜)の拡幅等により旧態を留めていません。大経寺は御仕置場に隣接し処刑者の供養のために建てられた寺で、髭題目を刻んだ石碑は池上本門寺二五世貫首日ぎの筆によると伝えられるもので、元禄一一年(一六九八)若しくは元文六年(一七四一)の建立とされます。
この鈴ヶ森刑場では、丸橋忠弥、天一坊、白井権八、八百屋お七、白木屋お駒など、演劇などで知られた者が処刑されたとされます。江戸の刑制史上重要な遺跡です。」
平成二四年三月 建設 東京都教育委員会」
「鈴ヶ森 大経寺 史跡案内」
【受刑者供養】
<南無妙法蓮華経(題目供養塔)>
裏面に願主として「法春比丘尼」「谷口氏」の名が刻まれています。
京都三条の商人、八幡屋谷口氏と法春比丘尼により元禄11(1698)年に造立された題目塔です。
十七世紀後半、法華信者の谷口氏が全国の街道筋の仕置場等に造立した題目塔のひとつであり、
小塚原、鈴ヶ森の仕置場等100基以上が確認されています。
五代将軍綱吉の時代に、犬を傷つけた咎で処刑された一人息子を悼んで母の法春比丘尼がこの塔を建てたという言い伝えも残っています。
<鈴森之碑>
鬼子母神堂世話人による明治44(1911)年2月の建立です。
<鈴ヶ森刑場受刑者之墓>
<一切業障海皆従妄想生>
【刑場遺物】
「磔台
丸橋忠弥を初め罪人がこの台の上で処刑された 真中の穴に丈余の角柱が立てられ、その上部に縛りつけて処刑したのである 鈴ヶ森史跡保存会」
「火炙台
八百屋お七を初め火炙の処刑者は皆この石上で生きたまま焼き殺された 真中の穴に鉄柱を立て足下に薪をつみ縛りつけて処刑されたのである 鈴ヶ森史跡保存会」
「首洗の井」
【その他供養】
<水難供養塔>
台座に「御林漁業」と刻まれている「水難供養塔」です。
南品川と浜川の間に御林浦があり、かつて御林漁師町がありました。
<鯉塚/石祠>
森ヶ崎には、かつて大規模な鯉の養殖を行っていて、鯉塚の句碑が残っています。
品川の海では鯉は獲れないので、森ヶ崎からの寄進でしょうか?(森ヶ崎の鯉塚はこちらで記載)。
左は不詳の石祠で、裏に慶応3(1867)年建之とあります。
<お首さま>
「勇猛院日健」と刻まれた、幕臣で彰義隊士の渡辺健蔵の墓です。
明治元(1868)年、戊辰戦争で官軍が民衆に対する振る舞いを、官軍本陣・池上本門寺の有栖川宮へ直訴するも捕えられ、
寺前の霊山橋で斬首され、鈴ヶ森刑場でさらし首にされます。これが鈴ヶ森刑場での最後の処刑といわれています。
<標柱「奉供勇猛院日健尊儀」>
墓の右脇に建つ標柱です。
<勇猛院日健尊儀>
この碑は、渡辺健蔵の50回忌にあたる大正6(1917)年の建立で、
この時に石柱柵が寄付され寄付者名が刻まれています。
<馬頭観世音菩薩>
左の「馬頭観世音菩薩」は、安政2(1855)年の大火で死んだ馬の霊を供養するために建てられた供養塔です。
正面下部に2頭の馬が陽刻されています。
右の小さい「馬頭観世音」は明治3(1870)年の建立です。
<六十六部供養塔>
正面「六十六部供養塔」、両脇に「天下泰平」「國土安全」と刻まれています。
裏に「明和四丁亥年」とあり、明和4(1767)年の造立です。
<題目供養塔>
「南無妙法蓮華経」と刻む供養塔です。
<大震火災殃死者供養塔>
関東大震災の十三回忌に建てられており、昭和10(1935)年の建立です。
<永代鈴森御花講新橋>
<地蔵>
<その他>
<鏡天>
<合葬墓「みんなのお墓」>
大経寺が設けた身寄りのない人も利用できる合葬墓です。
文久3(1863)年に、名主大野貫蔵が中心となり、刑場脇の村持空地に接待所番小屋を再建するとともに、鬼子母神を安置しました。
名主大野貫蔵は村々の名主を招待してこれを披露しました。
接待所は、明治4(1871)年に刑場と共に廃止となり、建物は鬼子母神堂として残ります。
昭和17(1942)年、寺号公称により「鈴森山大経寺」が開山しました。
(「鬼子母神堂」(大井町史)を参照しました。国立国会図書館デジタルコレクション)
小塚原には回向院があったので、接待所は設けられていません。