○ 宮堀の渡し(蟹庭の渡し)跡
○ 新神谷橋
〇 隅田川テラス
・新神谷橋〜水と風のテラス
・新神谷橋〜新田橋
北区立宮堀児童遊園内に、説明板「宮堀の渡船場跡」があります。
新神谷橋が架けられるまで大正時代末期から昭和35(1960)年にかけて「宮堀の渡し」がありました。
<北区立宮堀児童遊園>
小さな児童遊園です。なぜか遊園内に地蔵が祀られています。
(説明板)
「宮堀の渡船場跡
北区神谷一ー三 北区立宮堀児童遊園
説明版の奥の川沿いには、大正時代末期から昭和三十五年(一九六〇)にかけて宮堀の渡船場がありました。
この渡船場が設けられたのは, 荒川放水路が完成したことに よります。明治四十三年(一九一〇)八月の東京大洪水を教訓として翌年から荒川の河川改修工事が始められ、大正十三年(一九二四)六月に荒川放水路の全線が通水しました。その結果、足立区新田町の一帯は放水路と隅田川にはさまれて島のように孤立した地域となったため、北区と新田地域との間を往来する二つの渡船場が設置されました。一つは野新田の渡船場で、もう一つが宮堀の渡船場です。新田地域からさらに先の足立区側へ赴くときは、鹿浜の渡船場を利用しました。
橋が少なく、鉄道や自動車が普及していない時代には、渡船は重要な交通機関でした。神谷や十条に住む人々は、宮堀の渡船場を使って、毎月二十一日の西新井の大師参りに出かけたり、鹿浜へ虫切りといってカンの虫治療に行ったりしました。また、桜の咲く季節には、荒川堤へ花見に行く人々で渡船場は賑わいました。
しかし、交通量の増大に対応して、昭和三十七年(一九六二)十月に新神谷橋の架設工事が着工され、同四十年(一九六五)十月に片側車線が開通し、環状七号線が足立区側へ入ることなりました。宮堀の渡船場は、新神谷橋の架橋によってその役目を終え、昭和三十五年の冬に廃止されました。
平成八年三月 東京都北区教育委員会」
「江戸近郊道しるべ」(村尾嘉陵)
「鹿浜新田の渡し」(野新田の渡し)の荒川上流に「蟹庭渡シ」とあります。地名として「蟹庭」が記載されています。
江戸時代にはすでに「蟹庭の渡し」が存在したようです。
江戸時代、「神谷村」は、荒川で蟹がよく獲れたことから「蟹庭」(かにわ)と呼ばれていたのが通説のようです。
wikipediaによると、王子電気軌道が「神谷橋駅」を設置した際に「かみやばし」としたことを契機として、神谷を「かにわ」ではなく「かみや」と読むようになったようです。
隅田川の起点である岩淵水門から一番最初に架かる環七通りの「新神谷橋」です。
かつて「宮堀の渡し(蟹庭の渡し)」がありました。
隅田川上流 隅田川下流
環状七号線と北本通りの交差点上は「神谷陸橋」ですが、交差点名は「宮堀交差点」、交番は「宮堀交番」です。
隅田川右岸「水と風のテラス〜新神谷橋〜新田橋」にかけて、隅田川テラスが整備されています。
北区立宮堀児童遊園にある階段を利用して隅田川テラスに出ました。
新神谷橋の下をくぐり、テラスを上流に向かいます。
隅田川上流
〇神谷ポンプ所 北区神谷3-10
(説明板)
「神谷ポンプ所は、北区赤羽南、志茂、神谷地区の雨水を排除するために建設されました。このポンプ所は降り始め農水を、神谷幹線と地下40mにある貯留池に溜めて、晴れた日に「みやぎ水再生センター」に送り処理します。なお、貯留量を超えた雨水は墨田川へ放流する施設です。」
〇隅田川志茂防災船着場 北区志茂3-46
新たに整備された防災船着場です。
<隅田川テラス終端> 北区志茂3-46
赤羽体育館の裏手「水と風のテラス」が終端となります。
新神谷橋から下流へ隅田川テラスを進みます。
新神谷橋
進みます。
〇北区神谷船着場 北区王子5-27
進みます。新田橋の手前で終端となりました。
終端堤防上から隅田川上流とテラス