厩橋から上流の駒形橋に向かいます。
<うまやの渡し跡>
説明板「うまやの渡し跡」があります。
実際の渡し場は、厩橋の上流ではなく、下流にありました。
(説明板)
「うまやの渡し跡
江戸時代は幕府の政策により橋の数が少なく、かわりに各所に「渡し舟」がありました。
ここには「うまやの渡し」があり多くの人々を渡しました
春のお花見の頃は「墨堤の桜」を見に行く多くの人々が利用しました。」
「名所江戸百景 御厩河岸」(広重)
向岸に見えるのは「石原橋」(現存せず)です。横網2丁目12番地にあった入堀に架かっていました。
船上の二人は夜鷹(私娼)で、濃い化粧で表現されています。
夜鷹は、黒の着付けで白木綿の手拭いをかぷり、端を口にくわえ吹きさらしにする姿が定形でした。
横に控える男は妓夫(ぎゅう)(客引き、用心棒)で、牛、牛夫とも書き、牛太郎とも呼ばれました。
夜鷹は石原橋奥の本所吉田町の裏長屋に住み、隅田川を越えて商売をしていました。
<看板「東京で一番美しく隅田川・スカイツリー・屋形船がみえる処」>
夜景が映えそうです。
<隅田川テラス案内図>
駒形橋が面前に見えてきました。
隅田川テラス案内図には「駒形橋」と「駒形堂」の説明があります。
<御柱>
安達裕氏作のオブジェ「御柱」が駒形橋西詰にあります。
「昭和62年度 東京都文化のデザイン事業
御柱
制作 安達裕」
<駒形橋石碑>
正面:「駒形堂付近のながめ 名所江戸百景より」
「名所江戸百景 駒形堂吾嬬橋」
左面:「江戸名所図会より」
「江戸名所図会 駒形堂 清水稲荷」
裏面:「駒形堂付近のながめ 名所江戸百景より」
「名所江戸百景 駒形堂吾嬬橋」
右面:「江戸名所図会より」
「江戸名所図会 駒形堂 清水稲荷」
(碑文)
「駒形(こまかた)の名は、浅草寺に属する駒形堂に由来する。土地の人々によれば、コマカタは清く発音して、コマガタと濁らないと伝えている。
ここは古来、交通の要地で、”駒形の渡し”のあったところである。
江戸の巷説に有名な、
君はいま 駒形あたり ほととぎす
の句は、文芸・美術などの上で、駒形堂とともに、この辺りの雰囲気を伝えるものである。
関東大震災(一九二三年)の後、復興事業の一環として、この地に新しく、優美なアーチ橋が設計され、昭和二年(一九二七年)に完成した。
歌人、正岡子規の和歌にも、
浅草の林もわかず 暮れそめて
三日月低し 駒形の上に
というのがあり、当時の景況がしのばれる。
昭和五十八年三月 東京都」
「名所江戸百景 駒形堂吾嬬橋」(広重)
石碑に、はめ込まれているプレートの錦絵です。
左下に駒形堂と吾妻橋が見えます。
秩父山中で切出した材木は、筏船に仕立て駒形で荷揚げされました。材木が描かれています。
上空にはホトトギスが舞っています。
竹棹の先に赤い旗が掲げられており、小間物屋「百助」の目印です。(「百助化粧品店」浅草2丁目に移転)
吉原遊客は、猪牙船を一旦降り、ここで手土産を買いました。
仙台藩主綱宗も、こちらで高尾太夫に渡す手土産を買ったようです。
「伊達ぎらい吉原中にただ一人」と言われた高尾太夫。
「君はいま駒形あたりほととぎす」は、そのままもう来ないでとの気持ちがあったのかどうか。
「江戸名所図会 駒形堂 清水稲荷」
石碑に、はめ込まれているプレートの江戸名所図会です。