橋名板がしゃれています。
蔵前橋の欄干は、屋根舟と横綱の土俵入りのモチーフです。
橋の中央部分のバルコニーには、大相撲をテーマとした透かし彫りがあります。
蔵前橋からの上流左岸方面、下流左岸方面。
江戸時代の浅草御蔵の雰囲気を伝えるモニュメントとなっています。
蔵前橋から総武線鉄橋まで、470メートルの「なまこ塀」が続きます。
広重の隅田川の千住大橋から永代橋まで、多数の浮世絵が展示されています。
また、江戸の御手伝普請で組頭を勤めた大名家の家紋が掲示されています。
途中、旧鳥越川暗渠の隅田川合流部の朱色の橋があります。
<隅田川テラス周辺案内図>
蔵前橋下流側、テラスへ下りる階段の上に「隅田川テラス周辺案内図」があります。
「隅田川テラス」「蔵前界隈」の説明があります。
<隅田川テラス案内図>
階段を下りたところに「隅田川テラス案内図」があります。
「蔵前橋」「浅草御蔵跡」の説明があります。
<隅田川テラス>
テラス上に広重の浮世絵、なまこ塀に家紋が続いています。後ろにまとめて掲載します。
それ以外の光景です。蔵前橋とスカイツリーを背に進みます。
<旧鳥越川暗渠防潮扉と橋>
朱色の橋は、暗渠の鳥越川が隅田川に合流している場所です。
隅田川合流地点へ暗渠が直進する筋に変えられています。本来の河口部はもう少し下流です。
現在の合流点は、浅草御蔵の八番堀と七番堀の間に当たります。
<向岸>
向岸には、隅田川テラスギャラリーが見えます。
幕府の御竹蔵の入堀に架かっていた御蔵橋の場所には、両国ポンプ所の水門が御蔵をかたどっています。
<明和八年地図 須原屋茂兵衛>
広重の浮世絵の他、須原屋茂兵衛の明和八年地図が展示されています。
<修景工事>
修景工事のプレートがあります。
「1994年2月
隅田川(蔵前橋下流)右岸修景工事
延長 469.9m→
東京都
勝村・鶴ヶ谷建設協同企業体 施行」
<隅田川テラス案内図>
総武線鉄橋の先のテラスは行き止まり。
鉄橋手前の階段先に案内があります。
<隅田川テラス行き止まり部分> 総武線鉄橋〜神田川河口
総武線鉄橋下にある路上モニュメント。
<距離表示と指標>
線路をくぐると、両国橋まで250mの表示です。両国橋へは行き止まりで行けません。
<テラスの光景>
<神田川河口部>
神田川河口部で行き止まりです。
行き止まりから振り返ったところ
<対岸>
対岸は、隅田川テラスギャラリーへ下りる両国橋の脇の階段が見えます。
上流から順に見ていきます。
各3枚目は国立国会図書館デジタルライブラリーからです。
「千住の大はし」
現地には色々とモニュメントがあります。
「隅田川水神の森真崎」
墨堤の桜から、手前に水神の森、隅田川対岸に真崎稲荷、遠方に筑波山が描かれています。
ここからは筑波山は右手なので見えないはずですが描かれています。
「墨田河橋場の渡かわら竈」
瓦を焼く達磨竈から煙がたなびいています。
在原業平も渡った「橋場の渡し」に渡し舟が見えます。近景にユリカモメが見ます。遠景には筑波山です。
「吾妻橋金龍山遠望」
桜吹雪が舞っています。右方向に流れていますが、帆の向きとは反対です。
簾を挙げている屋根舟です。
隅田川下流の吾妻橋、富士山、浅草寺が見えます。
「浅草川首尾の松御厩河岸」(タイトルの雁が余分で不要です。)
竹垣からはみ出した首尾の松の下に浮かぶ屋根舟は簾を下しています。
舟先には、二足の履物が置かれています。 簾には芸者らしき影がうっすらと見えます。
「浅草川大川端宮戸川」
後摺りの題名が「両国船中浅草遠景」です。
左は神田川の河口に位置した柳橋の料亭「八万楼」。
右の船上も梵天を立て、先達の修験者が法螺貝を吹いています。
大山講中一行が柳橋の船着き場を目指すところです。
「両国花火」
両国橋と花火が描かれています。
「両国橋大川ばた」
近景に広小路の賑わいが見えます。
向岸の両国橋上流には百本杭と御蔵橋が見えます。
「大はしあたけの夕立」
新大橋の向岸に幕府の御船蔵が見えます。
「あたけ」とは「安宅」で、徳川将軍の「安宅丸」が係留されていたことからついた地名です。
「両ごく回向院元柳橋」
回向院の相撲櫓越しに富士山が見えます。
向岸の薬研堀に、柳橋と名前の由来となった柳が見えます。
「みつまたわかれの淵」
箱崎川が合流する所に中洲があり、三つ又、三俣と呼ばれました。
この辺りは、淡水と海水の潮目の境目で「わかれの淵」とも呼ばれました。
箱崎川は埋め立てられ、現在は箱崎ジャンクションです。
「鎧の渡し小網町」
鎧の渡しは、源義家あるいは平将門に由来しています。
各種問屋の蔵がずらりと並んでいます。
「永代橋佃しま」
永代橋から佃島を見ています。星空にオリオン座が見えます。
<家紋の掲示>
江戸の御手伝普請で組頭を勤めた大名家の家紋が掲示されています。
(説明プレート)
「家紋の掲示
慶長八(一六○三)年、征夷大将軍に任ぜられた徳川家康は、名実共に天下を掌握し、江戸を全国政権の中心にふさわしい都市とする「天下普請」に着手した。家康は、江戸を発展させるためには、港湾都市的形態が最良であると考え、城前方の東京湾波打ち際の方にまちづくりを開始した。そこで、神田台(今の千代田区駿河台から大手町に存する一帯)を切り崩し、その土で現在の中央区一帯を埋め立てて市街地の造成を行った。その時家康は、全国の大名に対して、「御手伝普請」を命じ、幾つかの組に編成してこの大規模な工事を進めた。こうして今の日本橋浜松町辺りから新橋付近に至る下町が生まれ、また堀川(日本橋川)が造られて着々と港湾都市としての江戸の町づくりが進展した。今回、当時活躍した人達の中で組頭を勤めた主な大名の家紋を護岸壁面に掲示した。」
(上流から下流へ)
伊達正宗 本多忠勝 三つ葉葵 上杉景勝 前田利長 生駒一政
浅野幸長 黒田長政 細川忠興 蛇の目紋(加藤清正)
※生駒一政は「生駒一正」の誤りです。三つ葉葵紋と蛇の目紋には名前が記されていません。