蔵前橋から上流の厩橋に歩きます。
平成26(2014)年8月2日にオープンしています。
<修景工事>
蔵前橋下流側に修景工事のプレートがあります。
「2013年3月
隅田川(蔵前橋上下流)右岸修景工事
絵延長 184.8m→
東京都
加勢造園株式会社施行」
<隅田川テラス案内図>
蔵前橋上流階段下に「隅田川テラス案内図」があります。
「首尾の松」と「蔵前国技館跡」の説明があります。
葛飾北斎の浮世絵の陶板画レリーフが展示されています。
首尾の松の下で釣りを楽しむ男女を葛飾北斎が描いています。
御厩河岸上流の浅草川は禁漁(殺生厳禁)とされていますが、御蔵前は釣りが可能でした。
御蔵前は石材を積んだ船が沈んで石材が岩礁となり魚が多く、釣りの名所でした。
(説明板)
「浮世絵師葛飾北斎
「首尾の松の鉤舟 椎木の夕蝉」
首尾の松とは、御米蔵の4番堀と5番堀の中間にあった枝ぶりの良かった松の木のことです。江戸時代は、吉原で舟で行くことが粋とされ、吉原帰りの客が昨晩の首尾(物事のなりゆき、結果)を思い出す所、吉原に向かう客が今宵の首尾を思い描く所でした。また、吉原往還の目印のほか、釣りの穴場としても有名でした。
このほか、浮世絵には大川の対岸に瓦屋根を葺いた平戸新田藩の上屋敷(現同愛記念病院)の椎の巨木が描かれています。また、左の絵の松の枝辺りには、入堀に架かる石原橋や辻番屋、三河国拳母藩内藤家の下屋敷も描かれています。
なお、この浮世絵には江戸時代の雰囲気を詠った2つの狂歌が示されています。
左の絵の句は、美しい松と釣りをする美しい女性を掛けた句となっています。
右の絵の句は、椎の巨木に蝉が往く夏を惜しむように鳴いている様子を詠っています。
美し佐松者千と世越延あ可里 延阿可り見類舟能たをやめ
(美しさ松は千歳を延上がり 延上がり見る舟の女)
時ま多記見あくる椎乃青空に とこ路定め須蝉の志くるゝ
(時跨ぎ見上げる椎の青空に 所定めず蝉のしぐるる)
東京都第六建設事務所」
「絵本隅田川両岸一覧 首尾松の鉤舟 椎木の夕蝉」(北斎 風俗絵巻図画刊行会 大正6(1917))
「隅田川長流図巻」(狩野休栄 大英博物館所蔵)
浅草御蔵は鳥越川〜厩橋の間にかつてあり、この場所も浅草御蔵があった場所です。
護岸に「隅田川長流図巻」と「浅草御蔵絵図」が展示されています。
東京都のセンスに拍手喝采します。
首尾の松は蔵前橋の下流にあり、描かれています。
「浅草御蔵絵図」(東京都江戸東京博物館所蔵)
掲示されている「浅草御蔵絵図」は見えにくかったのですが、浅草御蔵の雰囲気は十分伝わってきました。
葛飾北斎の浮世絵が、もう1枚展示されています。
御厩川岸の渡しを描写しています。
画面左上にはみ出した高い竹竿のてっぺんに燈籠が掲げられています。
これは榧寺の盆名物の高燈籠で、仏の目印として高く掲げたほうが良いとされていました。
御厩川岸の渡しはいつも満員で転覆事故が多く、別名「三途の渡し」と呼ばれていました。
(説明板)
「浮世絵師葛飾北斎
「榧寺の高灯篭 御馬屋川岸乗合」
現在の厩橋は江戸時代には無く、渡し舟により人々が行き来していました。
この浮世絵では、御厩川岸の渡しと呼ばれた風景を描写しています。対岸は本所荒井町・番場町あたりで、手前は浅草黒松町か諏訪町となります。渡し舟は後から乗った人から先に降りなければならず、1艘はこれから本所側を離
れようとし、手前の舟は間もなく浅草側に到着しそうな情景となっています。
この渡しの目印は榧寺の盆名物の高燈籠で、仏となった者は燈籠を目印に帰ってくることから高く掲げた方が良いとされていました。御厩川岸の渡しはいつも満員で転覆することもあったため、別名「三途の渡し」と呼ばれていたようです。
なお、この浮世絵には江戸時代の雰囲気を詠った2つの狂歌が示されています。
右の絵の句は。目印となった高灯篭を詠み、左の絵の句は、渡し舟の様子を詠っています。
志けりあふ色も萌黄能かや寺に 火燭と見ゆる燈籠乃影
(繁りあう色も萌黄の榧寺に 火燭と見ゆる燈籠の影)
ろ能おとに雁こきませてわ多し舩 あとの可先へあかるのり合
(櫓の音に雁こき混ぜて渡し船 後のが先へ上がる乗合)
東京都第六建設事務所」
「絵本隅田川両岸一覧 榧寺の高燈籠 御馬屋川岸乗合」(北斎 風俗絵巻図画刊行会 大正6(1917)年)
「御蔵前八幡宮ニ於面 奉納力持」(歌川国安)
蔵前八幡宮(現:蔵前神社)で行われた力持の技芸を披露する神事がを描いた陶板画レリーフです。
この錦絵は蔵前神社にも掲示されています。
「剣菱」の商標は、他の絵師の錦絵にも色々と描かれています。
「男山」は、徳川将軍家の「御膳酒」に指定された銘酒でしたが、明治初頭に蔵元が廃業しています。
(説明板)
「浮世絵師 歌川國安錦絵
「御藏前八幡宮二於而 奉納力持」
この錦絵は、文政7年(1824年)の春に、御蔵前八幡宮(現・蔵前神社、旧・石清水八幡宮)で行われた「力持」の技芸の奉納を描いたもので、作者は初代歌川豊國門下の三羽烏と言われた歌川國安(1994年から1832年)です。
素人の力持は文化後期より流行し、この錦絵が描かれた頃に絶頂期を迎えたように素人の力持を称える文化がありました。左の絵の「大関金蔵」は、当時有名な素人の力持で、神田明神下の酒屋・内田屋の金蔵と思われます。これらの錦絵は、奉納力持の記念として制作されたものですが、絵のなかに当時の日本酒の銘柄が入った酒樽が描かれていることから、これら3枚の錦絵は、そのまま宣伝用のポスターとして使用されたのではないかとも言われています。
また、この奉納力持が開催された御蔵前八幡宮は、勧進大相撲の発祥の地であり、天保4年(1833年)に本所回向院が定場所となるまでは、回向院・深川八幡と共に、勧進大相撲が行われた3大拠点の一つでした。この場所では幾多の名勝負が繰り広げられましたが、なかでも天明2年2月場所では、63連勝中の谷風梶之助が小野川喜三郎に敗れ、江戸中が大騒ぎとなりました。
(資料提供:男山株式会社、蔵前神社)」
馬づくしの橋です。
(西詰上流側)
(西詰下流側)
○厩橋際公衆トイレ 台東区蔵前2-15-9
西詰の南側にある斬新なデザインのトイレです。テレビでも紹介されていました。
「平成4年度 まちかど賞
景観形成に寄与されたことをたたえます
台東区」
厩橋東詰の北側に厩橋地蔵尊があります。
古い地蔵が2体と、新しい地蔵1体の、3体の地蔵が祀られています。
東京都の由来碑は、西詰に多いのですが、厩橋由来碑は東詰の北側にあります。
プレートは、「名所江戸百景 浅草川首尾の松御厩河岸」(広重)です。
(碑文)
「厩橋
厩(うまや)の名は、浅草の御米蔵に付属する御厩が、この地にあったことに由来する。
ここには、”御厩(おんまい)の渡し”があり、地名としても、御厩河岸などと呼ばれていた。
明治五年(一八七二年)に、渡し船の転覆があって、地元の住民によって有料の木橋をかけることが計画され、明治七年(一八七四年)には実現した。その後、この橋は、明治二十年(一八八七年)に東京府に寄付された。
しかし、老朽化がひどかったため、明治二十六年(一八九三年)、鉄製トラス橋にかけかえられたが、関東大震災(一九二三年)には橋床が焼失した。
その後、復興事業の一環として、三連のアーチ形の橋が、昭和四(一九二九年)年に完成、優美な姿を川面に映している。
昭和五十八年三月 東京都」
<明治初期の木製の御厩橋>
「御厩橋雷雨」(小林清親)
「厩橋」(井上安治)