○ 勝鬨橋
○ かちどき 橋の資料館
○ 勝鬨の渡し跡
○ 海軍経理学校之碑
勝鬨橋から下流の築地大橋方面 勝鬨橋から上流の佃大橋方面
<日本国重要文化財>
西詰の南側に「日本国重要文化財」石碑があります。
(碑文)
「日本国重要文化財
勝鬨橋 東京都知事石原慎太郎
〔諸元〕
橋 長 二百四十六・○メートル
幅 員 跳開部二十六・六メートル
固定部二十五・八メートル
上部工 中央径間 鋼製跳開橋
側径間 鋼製タイドアーチ橋二基
〔所有者〕
東京都
〔指定年月日〕
平成十九年六月十八日指定(建第二五○二号)
〔指定の意義〕
勝鬨橋は、東京港修築工事の一環として、海運と陸運の共栄を意図し、建造された、中央二連がハの字形に跳ね上がる日本国内において唯一のシカゴ型二葉式跳開橋等で、昭和十五年六月に竣工した。
勝鬨橋の特筆すべき点として、わが国最大の可動支開を有し大規模でかつ技術的完成度の高い構造物であり、上部構造は中央二連の中路式可動桁及び機械装置によりなる跳開橋と、左右一連の拱曲線を放物線とした下路式ソリッドリブタイドアーチからなる。
下部構造は直接基礎の鉄筋コンクリート造で内部に機械装置を収め、可動桁の端部が回転する空間を備える橋脚二基と、杭基礎の橋台二基からなる。
建造工事は、東京市が施工し、設計者は東京市嘱託員成瀬勝武の指導のもと同技師滝尾達也及び安宅勝らである。」
<欄干>
勝鬨橋が跳ね上がって船が通ります。
パラパラ漫画となっている欄干です。
<真中の隙間>
「かちどき 橋の資料館」は、橋を開くために使用していた変電所を改修し、
勝鬨橋をはじめ隅田川の橋について、資料等を展示・公開しています。
<国重要文化財指定>
国重要文化財の「清洲橋」「永代橋」「勝鬨橋」の指定書が掲示されています。
<跳開時の写真など>
<展示>
石碑「かちどきのわたし」と、案内板「勝鬨の渡し」(令和3年3月)が敷地内にあります。
(説明板)
「月島地域には、明治二十五年(一八九二年)に月島と銀座・築地方面を結ぶ渡船「月島の渡し」が開設されました。その後、両地を結ぶ交通需要が増加し、明治三十八年(一九○五年)には「勝鬨の渡し」と名付けられた渡船が開設されました。
「勝鬨」の名は、京橋区の有志が日露戦争における勝利を記念して名付けたことに由来します。
当地にある石碑には、正面に「かちときのわたし」とあり、側面には「明治三十八年一月京橋区祝捷會挙行之日建之 京橋区同士會」と陰刻されています。なお、当初に設置された渡船場は、ここから約百五十メートル西の波除稲荷神社の先にありましたが、関東大震災後に現在地付近へ移設されました。また、対岸にある月島側の渡船場は、月島西河岸通九丁目先(現在の勝どき一・三丁目の境)にあり、この間を渡船が運航していました。
勝鬨の渡しは、住民や月島の工場へ通う人々の重要な交通機関として大いに利用されていました。とくに、この渡船は月島への労働人口の集中を容易にさせることになり、当該地域の発展に寄与しました。関東大震災後、隅田川を航行する大型船舶のために、中央径間部が跳開する可動橋の工事が進められました。その結果、昭和十五年(一九四○年)六月に「勝鬨橋」が完成し、渡船の廃止に至りました。
明治末以来、市民交通の要として利用されていた勝鬨の渡しは、橋名に受け継がれながらその歴史を継承しています。
令和三年三月 中央区教育委員会」
「海軍経理学校之碑」が敷地内にあります。