○ 永代橋
○ 江戸時代の永代橋西詰
○ 永代橋〜隅田川大橋〜清洲橋
下流左岸からの永代橋 下流方面左岸 下流方面右岸
上流左岸からの永代橋 永代橋からの各橋への距離標
<土木学会選奨記念碑> 中央区新川1-20
西詰北側に、土木学会選奨の記念碑があります。
(碑文)
「土木學會選奨土木遺産 JSCE 2000
帝都を飾るツイン・ゲイト(清洲橋)
「復興は橋より」、これが関東大震災後の復興事業の合い言葉でした。帝都を代表する隅田川の入口にあたる第一、第二橋梁は、筋骨隆々とした男性的なイメージ(永代橋)と優美な下降曲線を描く女性的なイメージ(清洲橋)で演出されました。
これに加えて土木学会では、次のような理由から永代橋と清洲橋をワンセットにして、第一回選奨土木遺産に選定しました。
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・二つの橋は、近代橋梁技術の粋をあつめてつくられた震災復興橋梁群の中心的存在である。
・永代橋は、わが国ではじめてスパン100mをこえた橋であり、しかも現存最古のタイド・アーチ橋である。」
<日本国重要文化財> 江東区永代1-1
国重要文化財の石碑が東詰の南側にあります。
(碑文)
「日本国重要文化財
清洲橋 東京都知事 石原慎太郎
[諸元]
橋 長 一八十四・七m
幅 員 二十五・六m
上部工 鋼製三径間カンチレバー式タイドアーチ橋
[所有者]
東京都
[指定年月日]
平成十九年六月十八日 指定(建第二五○一号)
[指定の意義]
永代橋は、関東大震災復興事業によって建造され大正十五年(一九二六年)十二月に竣功した。永代橋の特筆すべき点として、上部構造は橋端部に水平力の及ばないライズ比七分の一の下路式タイドアーチで、リブに鋼板を充腹して剛性を高めたソリッドリブアーチ端部を高張力マンガン鋼のデュコール鋼を使ったアイバーで連結したアーチと、箱型鈑桁の突桁及び吊桁からなる構造である。放物線状の大規模アーチを中心として、桁高を巧みに変化させた荘重な造形により、力学的合理性に基づく近代的橋梁美を実現した橋梁である。
下部構造は鉄筋コンクリート造で固定式空気潜函工法を用いた橋脚二基と、締切工法による橋台二基からなる。
建造工事は、内務省復興局が施工し、後に東京市に引き継がれた。設計者は内務省復興局土木部長太田圓三及び同技師田中豊の指導のもと、同技師竹中喜忠らである。」
永代橋西詰の南側に「船員教育発祥之地碑」があります。
(碑文)
「船員教育発祥之地
内務郷大久保利通は、明治政府の自立的な海運改革を進めるにあたり、船員教育の急務を提唱し、三菱会社長岩崎弥太郎に命じて、明治八年十一月この地に商船学校を開設させた。当初の教育は、その頃隅田川口であり、海上交通の要衝でもあった永代橋下流水域に、成妙丸を係留して校舎とし、全員を船内に起居させて行われたが、これが近代的船員教育の嚆矢となった。
爾来百年、ここに端を発した船員教育の成果は、我が国近代化の礎となった海運の発展に大きく貢献してきたが、その歴史的使命は幾変遷をへた今日、江東区越中島にある現東京商船大学に継承せられている。
昭和五十年十一月 東京都中央区教育委員会」
江戸時代は現在の場所より約150メートルほど上流にありました。
創架は元禄9(1696)年、あるいは同11(1698)年とされ、以前は「深川の大渡し」がありました。
橋名は永代島に架けられたことに由来しますが、5代将軍綱吉の50歳の祝賀を込めたとの説もあります。
文化4(1807)年には深川八幡の祭礼に向かう混雑で橋桁が落下し、1,500人余りが溺死しています。
<説明板「永代橋」>
江戸時代の永代橋西詰跡に、中央区の説明板があります。
(説明板)
「永代橋
元禄11年(1698)に架橋された木造の永代橋は、現在の永代橋の場所よりも約150m上流のこの付近に架けられていました。橋名の由来は、当時このあたりが永代島と呼ばれていたことからと名付けらたようですが、一説には五代将軍綱吉の50歳を迎えた記念として名を付けられたとも伝えられています。江戸時代には橋桁が高く取られたこともあり、橋上からは”西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総、限りなく見え渡り眺望よし”などといわれるほどの美しい景色が広がっていました。
歌川広重が江戸後期に描いた「東都名所永代橋全図」には、隅田川河口のこの辺りに多数の廻船が停泊している様子がうかがえます。また、永代橋西詰のにぎわいとともに、幟が立つ高尾稲荷社へ参詣する人びとの姿などもみられ、詩情豊かな情景が描かれています。
なお、永代橋が現在の場所に移されたのは明治30年(1897)のことで、道路橋としては初めてとなる鋼鉄橋に生まれ変わりました。その後、関東大震災で被災したため、大正15年(1926)に現在の橋へと架け替えられました。
上流に架かる清洲橋の女性的で優美な雰囲気とは対照的に、男性的で重厚感あふれる永代橋は、隅田川の流れとともに広く都民に親しまれています。
2019年7月 中央区
【錦絵「東都名所永代橋全図」(広重)】」
「江戸名所図会 永代橋」
「東都名所 永代橋全図」(広重)
幟が立ち、参詣者が訪れている「高尾稲荷」が見えます。
江戸自体の永代橋西詰から隅田川テラスに下り、上流に向かって、隅田川大橋、清洲橋を目指します。
<スロープ新設工事>
日本橋川河口部は、スロープ新設工事中でした。
日本橋川河口部から、直線の隅田川テラスが続きます。
<隅田川大橋> 中央区日本橋箱崎町〜江東区佐賀1丁目
首都高速道路と都道が重なった2段構造の隅田川大橋です。
<←永代橋 300m 隅田川大橋→ 50m>
<隅田川テラス案内図>
隅田川大橋下流にある隅田川テラス案内図です。
「スーパー堤防」「日本銀行創業の地」の説明があります。
<修覆工事>
「1995年5月
隅田川(箱崎地区)修覆工事
延長 238.0m →
東京都
美加土建設株式会社施行」
<隅田川大橋を越える>
<隅田川テラス案内図>
隅田川大橋上流にある隅田川テラス案内図です。
「隅田川大橋」「水天宮」の説明があります。
<清洲橋に到着>
<隅田川テラス案内図>
清洲橋下流に隅田川テラス案内図があります。
「清洲橋」「平賀源内電気実験の地」の説明があります。
「平賀源内電気実験の地」(江東区清澄1-2-1)については、こちらで記載。