○ 椙森神社
椙森神社の創建は、天慶3(940)年、平安時代に平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所といわれています。
文正元(1466)年頃には、太田道灌が雨乞い祈願のために山城国(京都府)伏見稲荷の伍社を勧請して厚く信仰しました。
そのために江戸時代には、江戸城下の三森(烏森・柳森・椙森)の一つに数えられ、江戸庶民の信仰を集めました。
富興業も盛んで、境内には富塚があります。
「江戸名所図会 杉森稲荷」
本社の左には藤原秀郷由縁の「白狐神」が見えます。
藤原秀郷が奉納したという白銀の狐像は現存しているようです。
「江戸切絵図」
江戸切絵図にも記されています。
「新材木町」に鎮座しています。
「江戸名所図会 堀留」
2つの堀留川の堀留(堀の突き当り)が描かれています。
右面右中央部が新材木町辺りで、貯木場と店前に立てかけられた材木が見えます。
<椙森神社西鳥居>
<東鳥居>
<案内板>
人形町通りに「案内板」が出ています。東鳥居に至ります。
<社号標>
神社の西側に社号標があります。
(正面)「椙森神社」
(側面)「元帥伯爵東郷平八郎謹書」とあります。
(裏面)「昭和六年九月十五日」社殿が完成した時です。
<狛犬>
西鳥居の先に狛犬。昭和8(1983)年の奉納です。
<石燈籠>
駐車場に石燈籠。
(説明板)
「椙森神社 所在地 中央区日本橋堀留町一‐一○‐二
椙森神社の創建は、社伝によれば平安時代に平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所といわれています。
室町中期には江戸城の太田道灌が雨乞い祈願のために山城国(京都府)伏見稲荷の伍社の神を勧請して厚く信仰した神社でした。そのために江戸時代には、江戸城下の三森(烏森・柳森・椙森)の一つに数えられ、椙森稲と呼ばれて、江戸庶民の信仰を集めました。
しばしば江戸城下等の火災で寺社が焼失し、その再建の費用のために、有力寺社で当たりくじである富興行が行われ、当社の富も人々に親しまれていました。
明治維新以後も、東京市中の古社として盛んに信仰されましたが、惜しくも関東大震災で全焼し、現在の社殿は昭和六年に耐震構造の鉄筋造りで再建されました。
境内には富塚の碑が鳥居の脇に立ち、当社で行われた富興行をしのんで大正八年に建てられたもの(昭和二十八年再建)で、富札も残されており、社殿と共に中央区民文化財に登録されています。
平成八年三月 中央区教育委員会」
<手水舎>
手水鉢は昭和6(1931)年9月に御神殿建築請負者による奉納です。
<富塚> 中央区文化財
富塚は、当社で行われた富興行をしのんで大正8(1919)年に建てられたもの(昭和28(1953)年再建)です。
裏面に「昭和二十八年十一月再建」とあります。
(説明板)
「当椙森神社は、遠く一千年の昔、未だ江戸が武蔵野の原といはれた時代の創建です。
江戸時代には、江戸三森の一つであり、又、江戸商人の発祥の地としても栄えて来ましたが、神社が街の中心にあるため、江戸三富の一つにも数えられる程数多くの富籤が興行された事が記録に残されています。
この富興行は、江戸庶民の楽しみの一つであり、庶民の泣き笑いが今に思い浮かべることができます。この富塚は庶民の心の記念として大正九年に建立されましたが、関東大震災に依って、倒壊してしまいました。その後、富塚の話を知った氏子の人々は有志を募って、昭和二十八年十一月に再建されたのがこの富塚です。
この富塚は、他に類を見ないと言はれ、日本で唯一の物です。今日では、宝くじの元祖として多くの人々が、心中祈願をしている様です。」
富塚の前に三宝(富くじ入れ)が置かれています。
「宝くじをお持ちになってお参りにな
る方のため、置台として、
この「三方」を用意しました。」とあります。
<富塚祈願祭>
「九月二日(くじの日)十時三分(とみ)
富塚祈願祭」
<社殿> 中央区文化財
現在の社殿は昭和6(1931)年に耐震構造の鉄筋造りで再建されました。
社殿のほか、神楽殿・神輿庫・社務所・手水舎・玉垣・鳥居・社号標が整備されました。
天水桶は、昭和56(1981)年5月の奉納です。
<社務所/神輿庫>
絵馬は縁起三昧です。
<神楽殿>