Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 巣鴨 正寿山慈眼寺

  ○ 山門(寺号標/不染橋親柱)
  ○ 慈眼寺本堂
  ○ 比翼塚

 【慈眼寺墓地】
  ○ 案内板
  ○ 芥川龍之介の墓
  ○ 谷崎潤一郎の墓
  ○ 司馬江漢の墓(東京都旧跡)
  ○ 小林平八郎の墓
  ○ 斎藤鶴磯の墓(東京都旧跡)



○慈眼寺 豊島区巣鴨5-35-33

 慈眼寺は、「染井霊園」の北に隣接してあります。

山門>

 寺号標「日蓮宗慈眼寺」

 「不染橋親柱」 豊島区駒込5-37-1
  大正5(1916)年造立の不染橋(ふぜんばし)親柱が一対あります。

    
 

<染井霊園側案内板>

 染井霊園側の案内板には、慈眼寺の墓の案内が記されています。

    
 

慈眼寺本堂

 本堂の扁額は「正寿山」です。

   
 

比翼塚

 慈眼寺の境内にある、墓石が二つ並んで建てられている浦里・時次郎の比翼塚です。
 新内「明烏夢の泡雪」や歌舞伎「明烏花濡衣」などのモデルで知られた悲恋物語の主人公です。
 左は吉原の遊女美吉野(心誠妙貞信女)、右は蔵前の札差伊勢屋の若旦那伊之助(意實淨貞信士)です。
 「昭和二十年四月十日戦災 同二十八年再建」とあります。

     

 墓石の横に刻まれている辞世句です。
 「川たけの流るる身をもせき止めて 二世の契りを結ぶうれしさ 浦里」
 「一人来て二人つれ立つ二世の道  一つうてなに受ける露の身 時次郎」

   

 「鶴賀社中」の門柱

  

 「石燈籠」嘉永年間の寄進です。

  

 「手水鉢」昭和31(1956)年の寄進です。

   
 

【慈眼寺墓地】

 墓地入口に案内板があります。

案内板)
「慈眼寺
 司馬江漢の墓(イ之九側)
  江戸時代の画家
  日本初の銅版画作成
 斎藤鶴磯の墓(イ之七側)
  江戸時代の儒者
  各地を歩き名著「武蔵野話」を刊行
 小林平八郎の墓(司馬江漢の墓右隣)
  江戸時代の侍
  演劇・映画「忠臣蔵」で有名な吉良方の侍
 芥川龍之介の墓(ハ之三側)
  大正時代から昭和初期の小説家 代表作「羅生門」「蜘蛛の糸」等がある
  その業績を記念して芥川賞が創設された
 谷崎潤一郎の墓(ハ之三側)
  明治末期から昭和中期の小説家 代表作「刺青」「春琴抄」等がある
  京都鹿ヶ谷法然寺に墓があり、菩提寺である当山に分骨
 比翼塚(慈眼寺境内)
  新内「明烏夢泡雪」のモデルとなった浦里(吉原の遊女の美吉野)
  時次郎(札差伊勢屋の若旦那伊之助)の墓」

   
 

芥川龍之介の墓

 墓石は、芥川龍之介が愛用した座布団のサイズに合わせて石を切り出したものです。
 墓石の天辺には家紋の五七桐紋が彫られています。
 夏目漱石の墓石は椅子で、芥川龍之介の墓石は座布団であることは、座るのが仕事である作家らしい墓石と思いました。

     

     
 

 随筆『本所両国』(芥川龍之介)で、慈眼寺について言及しています。
「僕は萩寺の門を出ながら、昔は本所の猿江にあつた僕の家の菩提寺を思ひ出した。この寺には何でも司馬江漢や小林平八郎の墓の外に名高い浦里時次郎の比翼塚も残つてゐたものである。僕の司馬江漢を知つたのは勿論余り古いことではない。しかし義士の討入りの夜に両刀を揮つて闘つた振り袖姿の小林平八郎は小学時代の僕等には実に英雄そのものだつた。それから浦里時次郎も、――僕はあらゆる東京人のやうに芝居には悪縁の深いものである。従つて矢張り小学時代から浦里時次郎を尊敬してゐた。(けれども正直に白状すれば、はじめて浦里時次郎を舞台の上に見物した時、僕の恋愛を感じたものは浦里よりも寧ろ禿だつた。)この寺は――慈眼寺といふ日蓮宗の寺は震災よりも何年か前に染井の墓地のあたりに移転してゐる。彼等の墓も寺と一しよに定めし同じ土地に移転してゐるであらう。が、あのじめじめした猿江の墓地は未に僕の記憶に残つてゐる。就中薄い水苔のついた小林平八郎の墓の前に曼珠沙華の赤々と咲いてゐた景色は明治時代の本所以外に見ることの出来ないものだつたかも知れない。」(青空文庫より引用)
 

<芥川家之墓>

 墓誌には「芥川也寸志」「芥川比呂志」の名前も刻まれています。

   
 

谷崎潤一郎の墓

 谷崎潤一郎は、かつての論争相手だった芥川龍之介も眠る慈眼寺の谷崎家代々墓地に分骨されています。
 「安楽寿院功誉文林徳潤居士」とあります。最後に「妻松子誌」とあります。

    
 

司馬江漢の墓(江漢司馬峻之墓) 東京都旧跡

 司馬江漢は、江戸時代後期の洋風画家で蘭学者です。

    

(説明板)
「東京都指定旧跡
 司馬江漢墓
   所在地 豊島区巣鴨五の三七の一 慈眼寺墓地
   指定  昭和五年六月二日
 江戸時代後期の洋風画家で蘭学者。安藤氏の子として延享四年(一七四七)江戸四谷に生まれた。名は安藤吉次郎という。のち唐風に姓を司馬、名を峻に改めた。字は君嶽、江漢は号である。はじめ狩野派に学んだが飽き足らず、浮世絵師鈴木春信に師事して、春重の名で「夏月図」などを発表した。明和七年(一七七○)春信没後春信の偽物を描くが長続きせず、二世鈴木春信を気取って鈴木春重と称して美人画を多く描いた。同時に平賀源内の紹介で南蘋派の宋紫石に学んで漢画を習得した。安永年間秋田蘭画の指導者小野田直武から洋風画の教えを受け、天明三年(一七八三)腐蝕銅版画の創製に成功した。晩年は老荘の思想に親しみ、文政元年(一八一八)十月二一日七二歳で死去した。本所猿江町にあった慈眼寺に葬られたが寺院の移転により改葬された。著書には『西洋画談』『春波楼筆記』『和蘭通舶』などがある。法名桃言院快詠寿延居士。墓標は生前に建てられた(文化七年)寿塔である。
  平成五年三月三一日 建設  東京都教育委員会」

  
 

小林平八郎の墓

 小林平八郎は、「忠臣蔵」の吉良方の侍です。

 「小林平八郎平央通霊廟」とあります。
 慈眼寺での法名は「通玄院恵澄正脱玉円日融信士」

    
 

斎藤鶴磯の墓 東京都旧跡

 斎藤鶴磯は、江戸時代の儒者で、各地を歩き名著「武蔵野話」を刊行しました。

   

(説明板)
「東京都指定旧跡
 斎藤鶴磯墓
   所在地 豊島区巣鴨五の三五の三三 慈眼寺墓地内
   標識  昭和五年六月二日
   指定  昭和三○年三月二八日
 斎藤鶴磯(一七五二ー一八二八)は、水戸藩士の子として江戸に生まれました。江戸時代中期の儒学者、地誌研究家として知られています。通称を宇八郎、名を敬夫といい、鶴磯は号になります。武蔵国所沢に住み、江戸時代の有名な地誌である「武蔵野話初編」を文化十二年(一八一五)に完成させ、翌年江戸に戻りました。他に「女孝経補注」や「干支考」などの著作も知られています。文政十一年(一八二八)に亡くなり、本所猿江町の慈眼寺に葬られましたが、のちに寺の移転に戸もない改葬されました。
  平成二四年三月 建設  東京都教育委員会」

  


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