○ 真性寺(江戸六地蔵)
「江戸名所図会 巣鴨真性寺」
挿絵には「江戸六地蔵の一員なり」とあります。
手前の道は「すがも通り」とあり、中山道です。
遠景に「天神山」が見えます。
「江戸切絵図」
江戸切絵図から、真性寺と庚申塚部分の抜粋です。
<寺号標/真性寺由緒沿革>
(説明板)
「真性寺由緒沿革
当寺は、医王山東光院真性寺と称し、真言宗豊山派に属し、奈良県桜井市初瀬にある総本山長谷寺の末寺であります。
当寺の開基は、聖武天皇勅願行基菩薩開基と伝えられています。中興開基は元和元年(西暦一六一五年)祐遍法印であります。御本尊は薬師如来でありまして、古来より秘佛として一切開扉されて来ておりません。当寺は、江戸時代より弘法大師御府内八十八ヶ所第三十三番札所・江戸六地蔵参り第三番となっています。
巣鴨は中山道の江戸への入り口に当たり、八代将軍徳川吉宗公が度々狩りに来られ、当寺か御膳所とされていました。
江戸六地蔵尊 第三番 縁起
当寺境内に安置されております江戸六地蔵第三番の尊像は、地蔵坊正元が発願主となって、宝永三年(西暦一七○五年)造立の願を発してから、享保五年(西暦一七二○年)に至る十五年間に、江戸御府内の多くの人々より寄進を集め造立された六体の大地蔵尊の一体で、正徳四年(西暦一七一四年)に完成されました。
発願主の地蔵坊正元は、若い頃に大病を患い、両親が地蔵菩薩に一心に祈願を込められている姿を見て、自らも御利益が得られたならば、世の中の人々に地蔵菩薩の御利益を勧め、多くの尊像を造立して人々に帰依することを勧めたいと地蔵菩薩に誓ったところ、不思議な霊験があって難病から本復したことにより、誓いの通り地蔵菩薩像を江戸の出入り口にある六ヵ寺に造立されたのであります。
平成十二年八月吉日 醫王山 真性寺」
<江戸六地蔵尊開眼三百年祭>
2014年に、「江戸六地蔵尊開眼三百年祭」が行われています。
「江戸六地蔵百萬遍大念仏供養 毎年六月二十四日午後厳修」
「百萬遍大念珠供養は「災い回避の御祈願」として毎年六月二十四日の午後五時より厳かに行われます。
眞性寺境内に沢山の老若男女が、災いの回避を願い、直径三寸五分の大玉と二寸の小玉が連なった(全部で五四〇粒)長さ九間の大念珠を、お念仏を唱え廻します。
境内の「陰光地蔵尊石碑」によると、其の大念珠供養は天保十年に始まり連綿と続けられておりましたが、先の大戦により中断し戦後昭和四十六年に地内の江戸六地蔵供養会により復活しました。
現在は「江戸六地蔵尊奉賛会」の方々により運営され、どなたでも参加いただけます。また、子供用の大念珠も用意され、地域のお子様が大念珠を廻しております。
御奉仕参加の皆様には奉賛会よりお供物が振る舞われます。」
「江戸六地蔵尊略年表」「江戸六地蔵巡拝について」
<山門>
山門脇左右に、
寺号標「醫王山真性寺 真言宗豊山派」と
札所標「御府内八十八ヶ所第三十三番札所 弘法大師 眞性寺」(明治43年)があります。
<醫王山東光院 眞性寺>
【参道左手】
<弘法大師・興教大師供養塔>
「弘法大師一千五拾年御遠忌供養塔
興教大師八百五拾年御遠忌供養塔」
弘法大師空海は、真言宗の開祖。興教大師覚鑁は、真言宗中興の祖にして新義真言宗始祖です。
<日露戦争巣鴨町紀年碑>
<大震火災遭難者供養塔>
「大正十二年九月一日
大震火災遭難者供養塔
胡桃中村方載謹書」
<巣鴨町長石井君碑>
明治期に旧巣鴨町の町長を務めた石井小兵衛氏の顕彰碑です。明治44年の建立です。
<札所碑>
「弘法大師
御府内三十三番」
<芭蕉句碑>
真性寺境内は萩の名所で、芭蕉百年忌の寛政5(1793)年に、採荼庵梅人らが芭蕉句碑を建立しました。
碑には「志ら露も古保連ぬ萩のう禰里哉」と刻まれています。
裏面には杉風の「萩植てひとり見習ふ山路かな」の句が刻まれています(裏は見ることはできません)。
(掲示板)
「芭蕉翁
しら露も
こぼれぬ萩の
うねり哉
杉風 碑裏面
萩植て
ひとり見習ふ
山路かな
寛政発丑歳仲夏
一七九三年
採茶庵梅人社中」
「興教大師八百五拾年御遠忌供養塔」(平成4年)
「弘法大師壹千百五拾年御遠忌供養塔」(昭和59年)
「弘法大師一千年御忌供養塔」
【参道右手】
<阿弥陀堂/閻魔堂>
阿弥陀堂に閻魔大王と奪衣婆が祀られていましたが、新たに閻魔堂が新築されました(2024年1月竣工)。
「江戸東京四十四閻魔」の第二十九番です。
【社務所前】
<修行大師像/観音像>
<子育て地蔵尊>
区画整理により大塚3丁目からの移設です。子どもを抱えた地蔵尊像です。
<江戸六地蔵>
江戸六地蔵とは、宝永から享保にかけて江戸の出入口六か所に造られた銅製地蔵菩薩坐像です。
(説明板)
「東京都指定有形文化財(彫刻)
銅造地蔵菩薩坐像(江戸六地蔵の一)
所在地 豊島区巣鴨三ー二一ー二一
指定 大正一○年三月
江戸六地蔵の由来は、その一つ太宗寺の像内にあった刊本『江戸六地蔵建立之略縁起』によれば、江戸深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり、病気平癒を両親とともに地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したことから、京都の六地蔵に倣って、宝永三年(一七○六)造立の願を発し、人々の浄財を集め、江戸市中六ヶ所に地蔵菩薩をそれぞれ一躯ずつ造立したと伝えられています。各像の全身及び蓮台には、勧進者、その造立年代などが陰刻されており、神田鍋町鋳物師太田駿河守藤原正義によって鋳造されたことがわかります。六地蔵のうち、深川にあった永代寺の地蔵菩薩(第六番)は、廃仏毀釈で取り壊され、五躯が残っています。
六地蔵のうち、真性寺の地蔵は第四番目で、正徳四年(一七一四)に建立されました。平成二十〜二二年度(二〇〇八〜一〇)の修理の際に胎内から銅造地蔵菩薩坐像四躯と銅札、木札等が多数発見されました。それらは修理完了時に再び胎内に戻され、大切に保存されています。像高は、二六八cmあり、かつては鍍金が施されていました。
江戸時代中期の鋳造像としては大作であり、かつ遺例の少ないものであることから文化財に指定されました。
平成二三年三月 建設 東京都教育委員会」
「都重宝 銅造地蔵菩薩坐像」
「江戸六地蔵尊修復完成記念碑」(平成22年)
「江戸六地蔵尊三百年記念碑」
「東京都重宝文化財 江戸六地蔵尊」
「安永4(1775)年銘の札所碑」
(中央) 「江戸六地蔵三番目」
(左側面)「江戸九品仏一番目」
(右側面)「江戸八十八ヶ所三十三番」
「陰光地蔵尊」(大正10年)
<本堂>