○ 菅原神社(子安天満宮)
「江戸名所図会 巣鴨真性寺」
真性寺の遠景に「天神山」(子安天満宮)が描かれています。
<すがも史跡まっぷ(抜粋)>
真性寺から子安天満宮まで、距離は500mほどでした。
<社号標>
社号標は「子安天満宮」です。
鳥居の左手の草々に埋もれ気味です。
<参道/社務所>
<手水鉢>
手水鉢正面に文字が刻まれており、宝永年間の奉納です。
「加州」(加賀国)とあり金沢の石工が造った手水鉢です。
<拝殿/本殿>
扁額は「子安天満宮」です。
<由緒>
創建は室町時代の天文年間です。
三河から移住した仁平三河守盛義により、屋敷神として勧請され、邸内の東に創建されたのが始まりです。
盛義の子息である徳右衛門は保坂姓を名乗り、代々巣鴨村の名主を務めました。
江戸時代には子安天満宮と称され、江戸二十五天神の一社に数えらました。
また、社名に由来して、この地域は天神山と称されました。
「子安天満宮
御祭神 菅原道真公
平安朝宇多天皇時代の人(西暦八四五〜九〇三)
政治家・学者として歌人
鎮座 室町時代天文年間(西暦一五三二〜一五五五)
大祭 毎年五月二十五日
由緒
室町時代天文年間に巣鴨保坂氏の祖先、仁平(にだいら)三河守盛義(新編武蔵風土記稿巣鴨村の項参照)が三河の国から(一説には京都から)この巣鴨の地に来て、当神社の西方低地谷端川のほとりに陣屋と称する家屋敷を構え、巣鴨村立始の住人となって(駒込圓勝寺の墓石参照)土地の開墾に勤め、同時に屋敷の東西南北の小高い場所に神々を祭って屋敷神とした。北は氷川神社(北大塚一丁目三八番八号の辺り)、南は熊野神社(南大塚二丁目三九番五号の辺り、現在は天祖神社内に移る)、西は稲荷神社(北大塚一丁目十五番五号の辺り、又は同二丁目三三番の辺り)、そして東に勧請したものが菅原道真公を祭るこの神社であり、最も広く、明治時代は坂の下の道迄一、一二〇坪の境内地を擁した。盛義は元亀二年(西暦一五七一年)に没し、その子は武士をやめて姓を保坂と改め、代々徳右衛門と名乗るようになり、やがて江戸に徳川幕府がおかれ、中山道の往来がしげくなるにつれ、陣屋をすてて中山道筋に移り、永く増上寺領巣鴨村の名主を勤めた、保坂氏の子孫は絶えることなく、当神社への奉仕を続けて今日に至っている。尚この辺り一帯の土地を天神山と唱えるのは、この御宮に由来するものであり、社号に子安の二字を冠するのは子育ての意味である。当神社は江戸時代の江戸惣鹿子名所大全、須原屋版分間大絵図等にも登載され、江戸名所図会の巣鴨真性寺の遠景にも描かれている。
平成十六年五月 菅原神社」
<神具庫>