Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 巣鴨(中山道)

  ○ 庚申塚


○庚申塚・猿田彦大神神社 豊島区巣鴨4-35-2 HP

<巣鴨庚申塚立場>

 庚申塚の地は、中山道の立場だったところで、よしず囲いの茶屋がありました。
 茶屋では、藤の花をきれいに咲かせていたのが評判で、小林一茶も訪れて句を詠んでいます。

 (七番日記 小林一茶 文化13年)
  「藤棚を潜れば王子海道哉」
  「藤棚に翌巡る江戸の画解哉」
  「藤棚に寝て見てもお江戸哉」
  「藤棚の隅から見ゆるお江戸哉」

「江戸名所花暦 桜草」

 「巣鴨
  庚申塚左右この辺植木屋又は農家にても作れるなり こは生業となすゆゑなり」

 江戸名所花暦では、巣鴨庚申塚の左右の植木屋や農家では、桜草を栽培して売っていたことが記されています。
 中山道を通って、江戸市中に「桜草」を売りに行っていたようです。

「江戸名所図会 巣鴨庚申塚」

 巣鴨庚申塚の茶屋の夏の風景です。茶屋は3店描かれており、手前にもあるようで4店あったようです。
 街道を行く人々は麦藁帽子をかぶり、扇子で仰ぎながら歩く人も見えます。
 虫捕りの子どもが見えます。
 茶屋では扇子で涼をとっています。
 茶屋ではスイカや団子を売っています。

  

 ・「道標」と「塚上の二碑」
   中央左に道標が見えます。道標の正面には「王子稲荷大明神」、右側面「右わうじ道」と刻まれています。
   塚の上に石碑が二つ見えます。小さい方は青面金剛を刻んだ庚申塔で、大きい方は現在祀られている庚申塔でしょうか。
   明暦3(1657)年の庚申塔で、この下に文亀2(1502)年の石碑が埋められています。

   

 ・「スイカ」と「団子」

  茶屋ではスイカを切って売っています。団子を焼いて売っています。

   

「絵本江戸土産 巣鴨庚申塚」

 広重が巣鴨庚申塚を描いています。

  

「木曽街道板橋之駅」(英泉)

 タイトルは板橋之駅(板橋宿)ですが、中央に王子道の道標が見え、その手前は巣鴨庚申堂のある立場が描かれています。
 巣鴨の立場から板橋宿(背後の森は加賀前田家の下屋敷)を描いていますが、その間の中山道が飛ばされています。
 立場の茶屋の後ろに庚申塚があります(絵には描かれていません)。

  

「江戸切絵図」

 真性寺と庚申塚部分の抜粋と、庚申塚と滝ノ川三軒家部分の抜粋です。

   

<入口>

 「仲仙道庚申塚 猿田彦大神庚申堂」と「庚申塔造立 五百年記念」の標石が並んでいます。
 その横には「猿田彦大神庚申堂 由来記」が掲示されています。

   

<猿田彦大神庚申堂 由来記>

  

<庚申塚>

 入口左手に豊島区教育委員会の説明板があります。

(説明板)
「庚申塚
 庚申信仰の起源は、中国から伝わった道教の三尸説に求めることができる。それによれば、人の身体にいる三尸という虫が、六○日に一度訪れる庚申の夜に人の罪状を天帝に告げに行くため、人々はこの晩は寝ずに過ごし、寿命が縮められるのを防ぐというものである。
 こうしたことから、室町時代の中頃から庚申待が行われるようになり、さらに僧侶や修験者の指導によって講集団が組織され、江戸時代になると各地に庚申講が作られ、その供養のため庚申塔が造立されるようになった。
 さて、江戸時代の文化年間(一八○四〜一七)に出された地誌「遊歴雑記」によると、祠内に納めている庚申塔は、明暦二年(一六五七)一月の大火後に造られ、その際文亀二年(一五○二)造立の高さ八尺の碑は、その下に埋められたとされている。
 この庚申塚は、旧中山道(現地蔵通り)沿いに展開した巣鴨町の北東端、すなわち旧中山道と折戸通りの交差地に位置し、天保年間(一八三○〜四三)に刊行された「江戸名所図会」では、中山道板橋宿に入る前の立場(休憩所)として描かれている。現在も都電の庚申塚停留所を下車して参拝する人や、とげぬき地蔵(高岩寺)の参拝帰りに立ち寄る人が後を絶たない。
  平成八年三月  東京都豊島区教育委員会」

  

<庚申塔(猿像)>

 左右に庚申塔(猿像)2基があります。台座に三猿が刻まれています。
 昭和62(1987)年の奉納です。

    

<百度>

 石柱ではなく木柱で、百度石ではなく百度木ですかね。

  

<手水鉢>

   

<江戸の名所>

(碑文)
「江戸の名所
 巣鴨の中山道沿いにある庚申塚は、江戸時代から近郷近在に聞こえた名所でした。江戸と板橋宿との間にあり行き交う旅人たちで賑わっていたと伝えられ、その様子は「江戸名所図会」にも描かれています。現在では、特に庚申の日ともなると、近くの「とげぬき地蔵(高岩寺)」の縁日(毎月四の日)と同様に多くの参拝者があります。庚申塚では町内会の人たちが、参拝者に対し、季節ごとに趣向をこらした食事を作ってもてなしています。
 「江戸名所図会」のなかの茶店の屋根の葭簀の上に見える石塔は、庚申塚のいわれを裏付けるものです。現在、この石塔は当地の小さな社に鎮座し、その銘文によれば一六五七(明暦三)年に造立されたものということがわかります。これより以前、一五○二(文亀二)年に造立されたといわれる石碑がありましたが今はなく、「遊歴雑記」では、この塚の下に埋められていると伝えています。
 また、この庚申塚には、お猿さんが祀られているというようにいわれていますが、これは、この巣鴨近辺の有志が、明治初期、千葉県銚子市にある猿田神社から猿田彦大神を分祀したという歴史的事実によるものです。
  平成四年三月  豊島区教育委員会発行(石造文化財より)」

    

<庚申塚由来記>

(説明文)
「庚申塚由来記
 全国的に有名な巣鴨の庚申塚にあった庚申塔は高さ八尺で文亀二年(一五○二年)造立、現存していれば区内最古の石碑
 昔巣鴨の庚申塚は中山道の本街道であり板橋宿の一つ手前の立場として上り下りの旅人の往来が激しく休息所として賑わい簡単な茶店も在り人足や馬の世話もした。
 広重の絵にも描かれ江戸名所図絵で見ると茶屋に人が休み人足の奪い合いをしている旅人もいて賑やかである。
 ここに団子などを売る茶店もできて藤の花を綺麗に咲かせていたのが評判で花の頃は、小林一茶も訪れて
  ふじ棚に 寝て見てもまたお江戸かな
   の句もある。
 令和元年十二月吉日 毛堀濤石書」

  

<榎本留吉翁顕彰碑>

(碑表)「榎本留吉翁顕彰碑
(碑横)
「榎本留吉翁は、明治三十二年庚申塚に生をうけ、戦前、戦後を通じ、町会長として庚申堂の奉斎につとめ、戦災により焼失した堂宇を、昭和四十六年桧づくりに再建、昭和四十九年、手水舎を設ける等、境内整備につくした。これらは六十余年に亘る翁の郷土愛のたまものであり、茲にその功績を賛え顕彰するものである
  昭和六十年九月吉日  猿田彦大神奉賛会
   天祖神社宮司高島俊彦書
         真島泰峨文
           石治刻」

    

<縁起>

(碑文)
「縁起
巣鴨旧中仙道庚申塚所在 猿田彦大神庚申堂は 古く江戸時代から当地にあって今上天皇御大典記念に 近隣有志により代々奉祭してきましたが その後立派に建造し 社務所兼庚申塚町会事務所 会合場として時代に即応してきたが 昭和十九年三月 戦災により焼失し仮堂におまつりして来たのである 昭和四十七年隣接四町会及び広く崇敬する信者の賛同を得て 現在のような立派な御堂を建直すことが出来 又続いて御水屋も完成 境内も一層荘厳さを増したので茲に関係者の名を刻して後世に伝える
  昭和五十一年三月吉日
   庚申堂猿田彦大神奉賛会
     代表 榎本留吉」

   

<庚申堂>

 「史蹟 巣鴨の庚申塚」(木柱です)
 火消し組から奉納された立派な額「猿田彦大神」が右手にあります。
 庚申堂には明暦3(1657)年銘の庚申塔が祀られ、その下に、文亀2(1502)年の石碑が埋められています。
 また、猿田彦大神が合祀されています。

    

   


戻る