Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 六阿弥陀詣 木余り/根元 性翁寺


○性翁寺 足立区扇2-19-3 HP

 性翁寺のある扇二丁目は、旧宮城村です。
 宮城村は明治22(1889)年に9つの村が合併して江北村となり大字宮城となります。
 荒川放水路の開削で南北に2分された大字宮城は、昭和7(1932)年に北宮城町と南宮城町になりました。
 性翁寺のあるこの地は、昭和49(1974)年に、扇二丁目に編入されました。

 性翁寺の寺伝では神亀三年(七二六)、行基菩薩が庵を開いたのが始まりで、足立荘司宮城宰相が開基。
 江戸時代にはいると、阿出川対馬守貞次が中興開基となり、慶安元(1648)年には徳川家光から朱印地10石を与えられる格式を持ちました。

 本尊の木像阿弥陀如来坐像は平安時代末期から鎌倉時代初期の作成で、東京都指定文化財です。
 この本尊は悲運の女性・足立姫の菩提を弔うため行基菩薩が作成した六阿弥陀の余りの根元の木で作られたという伝説を持ち、
 「木余り如来」「根元の阿弥陀」と呼ばれました。

 足立姫の墓、開基の対馬守貞次をはじめとする阿出川家一族の墓があります。

 荒綾八十八ヶ所霊場の第47番札所です。

「六阿弥陀根本 木余如来略縁起」(足立区立郷土博物館蔵)

 この冊子は六阿弥陀伝説を記した木版の印刷物で広く江戸の人々に読まれました。

  

<正門/軒瓦>

 軒瓦が「木餘」です。

    

   

(説明板)
「龍燈山貞香院性翁寺
 京都知恩院を総本山とする浄土宗の寺院。寺伝では神亀三年(七二六)、行基菩薩が庵を開いたのが始まりで、足立荘司宮城宰相が開基、明応元年(一四九二)には正誉龍呑上人が開山となったと伝える。江戸時代にはいると、阿出川対馬守貞次が中興開基となり、慶安元年(一六四八)には三代将軍徳川家光から朱印地一○石を与えられる格式を持った。
 本尊の木像阿弥陀如来坐像は平安時代末期から鎌倉時代初期の作成で、東京都指定文化財。この本尊は悲運の女性・足立姫の菩提を弔うため行基菩薩が作成した六阿弥陀の余りの木で作られたという伝説を持つ。ここから広く女人往生の「木余り寺」として知られるようになり、多くの江戸・東京庶民の参詣地となった。
 また寺内には永禄十三年(一五七○)の阿弥陀三尊種字板碑をはじめとする八基の板碑や、当寺の由来を記した紙本着色性翁寺縁起絵と性翁文書があり、いずれも足立区登録有形文化財となっている。
 当寺はこのように様々な歴史と文化財に彩られた区内有数の寺院である。
  令和元年十二月  東京都足立区教育委員会」

  

<安心不動尊>

 文政10(1827)年銘の不動尊で、宮城村女人講中による造立です。
 令和元(2019)年に性翁寺に移設、開眼式が行われています。(性翁寺のBlogを参照しました。)
 後ろの煉瓦塀が映えます。

    

<中門>

 中門の両脇の塀は、煉瓦造です。
 宮城村に創設された下川煉化工場製のものかもしれません(あてずっぽうです)。

   

<寺務所>

 事務所に寄って、名前を告げます。

  

六阿弥陀コンブン道標>

 六体の六阿弥陀が造られた際、さらに余った根元の木で造られたことから「木余り如来」のほか、「根元の阿弥陀」とも呼ばれていました。
 道標にある「こん不"ん」は、「根分」かと思います。

    

・左の道標 天明8(1788)年銘
 (正面頂部)「六阿みだ こん不"ん」
 (正面下部)「木餘」、
 (同最下部)「壹丁/通怒」
 (左側面)「六あみだこん不"ん 木あまりによらい」
 (右側面)「六あみだこん不"ん 木あまりによらい」

    

・中央の道標 天明8(1788)年銘
 (正面頂部)「六阿みだ こん不"ん」
 (正面下部)「木餘如來」
 (正面下部右)「一丁半」
 (正面下部左)「通り怒け」
 (正面最下部)「宮城村 性翁寺」
 (左側面)「六阿みだこん不"ん 壱丁半 木あまりによらい通怒け」
 (右側面) 左側面と同様+@

      

・右の道標 嘉永5(1852)年銘
 (正面下部)「木餘如來」
 (左側面)「是与り左江 弐町半」
 (右側面)紀年を刻んでいます。

    

(推定)
 「江戸近郊道しるべ 」(村尾嘉陵)に掲載されている「六阿弥陀路程」を見ると、
 千住大橋を渡って性翁寺に向かうと、西新井大師へ向かう大師道と、西新井大師へ寄らずに通り抜けて直接性翁寺に至る分岐点があります。
 左へ行くと性翁寺、右へ行くと西新井大師です。性翁寺で、西新井大師からの大師道が合流します。
 道標にある「通り怒け」とは、西新井大師に寄らない道のことを指し、「木あまりにょらい通怒け」と呼ばれ、
 分岐点は性翁寺の手前2丁半にあり、性翁寺は左に行くよう示していたのではないかと推定します。
 「通り怒け」の途中、性翁寺手前一丁半と一丁にも、ここが通り怒けであることを示す道標があったと推定します。

  

<標石>

 天保11(1840)年銘の標石です。

 (正面)「六阿弥陀 木余如来」
 (左面)「境内足立姫墓」
 (裏面)紀年が刻まれています。

     

<動物合同供養塚>

  

<万霊之塚>

  

<地蔵堂>

 いぼころり地蔵尊がおられます。

  

<石仏と一石六地蔵>

 左面「享保十七壬子年」銘の「一石六地蔵」です。

     

<本堂>

   

<六地蔵>

 墓地入口に六地蔵。

    

<足立姫之墓>

 墓地入口に六地蔵がおられます。通路は左右とありますが、左の通路を行き、真っすぐ進み突き当ったら右へ。右手に足立姫之墓があります。
 「足立姫」「足立姫之墓」(新旧2つの墓碑)「足立荘司 宮城宰相」の石碑があります。

 「足立姫之墓」碑には、右に、神亀二年とあります。
 神亀2年は西暦で725年、当然ながら当時の石碑ではなく、左に大正10年6月建之とあります。

 小祠の中に、古い板碑がありますが、読めません。
 永禄13(1570)年銘の阿弥陀三尊種字板碑(足立区文化財)かと思います。
 「新編武蔵風土記稿」によると、「恵曜禅定門、永禄十三年八月十五日と彫たる古碑をたつ、かの女の碑ならざることは彫せし法諡にても知るべし、寺傳によるに足立姫の法諡を蓮相浄地と號し、卒年は詳ならず」とあります。

     

    

    

<阿出川対馬守墓所>

 阿出川家は小田原北条氏の家臣でしたが、主家の滅亡により帰農し、この辺りを開発しました。
 開基の対馬守貞次をはじめとする阿出川家一族の墓所があります(阿出川家の墓は多く、違っているかもです)。

  


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