Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 愛宕 真福寺


○真福寺 港区愛宕1-3-8 HP

 真言宗智山派摩尼珠山宝光院真福寺と号します。真言宗智山派東京別院です。
 御府内八十八ヶ所霊場67番札所です。
 御本尊は薬師瑠璃光如来で通称愛宕薬師と呼ばれます。
 大正から昭和にかけて再建された本堂や庫裡の老朽化が進み、平成7(1995)年に「真福寺・愛宕東洋ビル」として再生され、
 真言宗新義智山派の東日本における拠点として活動しています。

     

    

    
 

「江戸名所図会 愛宕下真福寺薬師堂 愛宕社総門」

 藪小路から南の、真福寺山門から愛宕社総門までの愛宕下通りと桜川です。2つの挿絵を合成しています。
 真福寺山門脇に桜川をまたいで辻番所が建っています。

  

 桜川を渡った先に山門、その先に薬師堂が見えます。
 真福寺山門の北側に桜川の上に建てられた辻番所が見えます。
 大名行列が、辻番所の前で、道の中央にある玉川上水の分岐桝を避けて通過しているため行列が乱れています。

   
 

「名所江戸百景 愛宕下藪小路」(広重)

 愛宕下通りが描かれています。
 右手の桜川にせり出している竹藪が加藤越中守上屋敷の裏手となります。
 正面奥の右手に真福寺山門の赤い門が見えます。桜川の上に辻番所も見えます。
 この先は増上寺へと続きます。
 桜川には石垣がきれいに積まれています。また標石が並んでいます。
 川柳「どぶ端に何のためだかどかり石」江戸ッ子も気になっていたようです。

    
 

<江戸切絵図>

 愛宕山の北、「サクラ川」沿に「真福寺」が見えます。辻番所も図示されています。
 真福寺から東へ向かう小路は「薬師小路」です。

  

<現在地図>

 「真福寺」の他、「栄閑院」「興昭院」にも寄りました。

  
 

<真福寺 略縁起>

(説明板)
「総本山智積院別院 摩尼珠山 真福寺 略縁起
 真福寺は京都市東山七条にある真言宗智山派総本山智積院の別院で、真言宗智山派の宗務出張所が置かれているお寺です。
 天正19年(1591年)中興照海上人が徳川家康公を慕って江戸へ出て、鉄砲洲に庵を構えたのが始まりで、慶長10年(1605年)家康公より愛宕下に1360坪の土地を賜り、開創されました。
 元禄年間になると弘法大師四国八十八箇所札所詣りの信仰が盛んになり、宝暦年間には御府内八十八箇所が定められ、真福寺も第六十七番札所として名を連ねています。
 このお寺のご本尊様は「薬師如来」、正しくは『薬師瑠璃光如来』といい、そのお姿は、右手で人々に安らぎと勇気を、左手に持つ薬壺(やっこ)で、病気の苦しみを除く請願を示し、『愛宕下のお薬師さん』と通称され、ご縁日には門前市を成す賑わいで、広く庶民の信仰を集めてきました。
 長い歴史の中で度重なる火災や震災などにより堂宇も焼失しましたが、大正から昭和にかけて再建された本堂や庫裡も老朽化が進み、平成7年4月に近代的な『真福寺・愛宕東洋ビル』として再生され、宗団の東日本における拠点として活動しております。
    総本山智積院別院 真福寺
  御本尊 『薬師瑠璃光如来』
  御真言 オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ」
  ご縁日 毎月八の日。」

  

(説明板)
「オランダなど使節宿館跡
 幕府は、安政5年(1858)、アメリカを初め、オランダ、ロシア、イギリス、フランスの五ヵ国と通商条約を結び、江戸の地には、外国の使節の往来がはげしくなった。この間、江戸における使節団の宿舎として、攘夷派浪士への対策、多人数が収容できるなどの理由から寺院が選ばれている。ことに港区内の寺院は、開港場と江戸を結ぶという地理的条件から宿舎に指定されるものが多かった。
 真福寺(真言宗智山派の東京別院)は、安政5年3月から約半年間、オランダ使節の宿舎となり、以後、当寺は、短期間であったが、ロシアやフランスの宿舎にもなった。なお、当時の建物は関東大震災で焼失した。
  昭和50年1月  東京都港区教育委員会」

  
 

<勝軍地蔵>

 愛宕権現の本地仏とされる勝軍地蔵を模して昭和9(1934)年に造られた勝軍地蔵菩薩像が境内にあります。

   

(説明板)
「この勝軍地蔵菩薩は、天平十年十年(七三八)、行基が近江信楽遊行の砌、造顕したもので、同地に安置され、霊験あらたかなり。
 天正十年(一五八二)徳川家康、本能寺の変の難を逃れんがため伊賀越に際し、信楽の土豪多羅尾氏、当勝軍地蔵を献上、沙門神証これを護持し、三河に帰還するをえたり。
爾来、家康の帰依厚し。
 慶長八年(一六〇三)家康、征夷大将軍に栄進するにより、江戸に愛宕神社を創建し、同社の本地仏として勧請、神証を別当の円福寺第一世とせり。
 明治の廃仏毀釈で円福寺は廃寺、尊像は、真福寺に移されたが、大正十二年(一九二三)関東大震災で焼失、昭和九年(一九三四)弘法大師一千百年御遠忌記念として、霊験を不朽にせんがため、銅製で造顕せり。この度の再建興隆に際し、後世に伝えんがため、茲に撰文するものなり。
平成七年六月三十日
  総本山別院 真福寺  住職 高井隆秀」

  


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