Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 常圓寺

  ○ 辰野金吾の墓 新宿区史跡
  ○ 常圓寺
  ○ 常泉院


○常圓寺墓地 新宿区西新宿7-13

辰野金吾の墓> 新宿区史跡

 「辰野金吾の墓」は、令和4(2022)年11月4日に新宿区指定史跡となり、令和5(2023)年2月28日に説明板が建てられています。

(説明板)
「新宿区指定史跡 辰野金吾の墓
  所在地 新宿区西新宿七丁目十三番地 常圓寺
  指定年月日 令和四年十一月四日
 明治・大正時代を代表する建築家・辰野金吾(一八五四〜一九一九)の墓で辰野家墓所にある。辰野金吾は、嘉永七年八月二十二日に唐津藩(現在の佐賀県)の下級武士の次男として生まれた。明治元年(一八六八)に叔父・辰野宗安の養子となり、同六年(一八七三)工部省工学寮(のちの工部大学校)の第一期生として入学、建築家のジョサイア・コンドルから建築を学び、同十二年に首席で卒業した。翌年から三年間イギリスに留学して西洋建築を学び、帰国後は工部大学校で建築に関するすべての講座を担当した。明治三十一年(一八九八)に帝国大学工科大学長となった後、同三十五(一九○二)年に退官し、辰野葛西事務所(東京)や、辰野片岡事務所(大阪)を開設し、重要文化財に指定されている日本銀行本店本館や東京駅丸の内駅舎をはじめとする日本近代建築史上重要な作品を手掛けた。また、建築学会会長なども歴任し、日本の近代建築の発展の礎を築いた。
 辰野家は常圓寺の檀家であり、金吾は庫裡や客殿(ともに現存しない)の設計も手掛けるなど、同寺との縁が深かった。
  令和五年二月二十八日  新宿区教育委員会」

   
 

<辰野家の墓>

 説明板「辰野金吾の墓」は、常圓寺本堂横にありますが、辰野家の墓は墓地にあります。
 本堂裏から道路を隔てた北側の墓地へ入り、左の石畳を行き、3つ目の石畳を右に曲がると左手にあります。

     

 辰野金吾・秀子夫妻と辰野隆・久子夫妻の墓石が建っています。右手は辰野家之墓です。
 建築学者辰野金吾とフランス文学者辰野隆父子の墓石です。

   

 (墓石正面)「辰野金吾 室秀子」
 (右側面) 金吾の経歴、戒名と没年が刻まれています。
 (左側面) 秀子の戒名と没年が刻まれています。

     

 フランス文学者の辰野隆と妻久子の墓石です。

  

「墓誌」

 赤○が辰野金吾。

  


常圓寺 新宿区西新宿7-12-5 HP

 常圓寺は、天正13(1585)年、日立上人が創建したと伝えられます。

<寺号標/中門>

 寺号標には英語でも寺名が刻まれています。

 「常園寺 Joenji Temple」

    
 

<便々館湖鯉鮒狂歌碑> 新宿区史跡

 狂歌師、便々館湖鯉鮒の狂歌を大田南畝(蜀山人)の揮毫で刻んだ狂歌碑です。
 中門前参道右手にあります。

(説明板)
「新宿区指定史跡 便々館湖鯉鮒狂歌碑 
  所在地 新宿区西新宿七丁目十二番五号
  指定年月日 昭和六十一年十月三日
 江戸時代中期の狂歌師便々館湖鯉鮒(一七四九〜一八一八)は、本名を大久保正武といい、牛込山伏町に住んだ。始めは福隣堂巨立と号したが、のちに便々館湖鯉鮒と改めた。
 この狂歌碑は自然の青石に彼の代表作である、
  三度たく 米さへこはし やはらかし
  おもふままには ならぬ世の中
が刻まれている。
 碑は湖鯉鮒の死の翌年、文政二年(一八一九)に、狂歌仲間であった大田南畝(蜀山人)によって揮毫された。なお、湖鯉鮒の墓地は袋町の光照寺にあり、新宿区登録史跡となっている。
  平成三十年三月  新宿区教育委員会」

   
 

<本堂>

 徳川光圀公の寄進伝本尊である、題目宝塔、釈迦・多宝の二仏坐像が奉安されています。

  
 

【参道墓地】

 本堂の右横から、道を隔てた墓地への石畳があります。
 説明板が掲示されています。

<筒井政憲の墓> 新宿区史跡

 墓は説明板の先の右奥にあります。

(説明板)
「新宿区史跡 筒井政憲の墓
  所在地 新宿区西新宿七丁目十二番五号
  指定年月日 平成十一年一月八日
 江戸時代後期の幕臣筒井政憲(一七七八〜一八五九)の墓。
 政憲は、昌平坂学問所に学ぶ頃から頭角を顕し、その後幕臣として栄進し、長崎奉行を経て文政四年(一八二一)には江戸南町奉行となり、約二○年にわたり
金銀貨の改鋳・都市防災対策・但馬出石藩仙石家騒動の審理・天保飢饉時の物価対策などの施策により、名奉行と評された。
 弘化年間(一八四四?四八)以後、老中阿部正弘のもと外交政策の立案にあたり、嘉永三年(一八五○)七十二歳の時には、武蔵・相模・伊豆・安房・上総・下総の六ヶ国の海岸防備を検分した。
 また、嘉永六年には長崎に来航したロシア艦隊の司令長官プチャーチンと会談。翌年大目付と異国人応接御用を仰付けられ、下田で日露和親条約を締結した際には、川路聖謨と共に全権をつとめた。
 またこの間、昌平坂学問所の御用も兼務し続けるなど、儒者としても活動し、『武蔵国風土記之内御府内之部』などの編纂にも関与した。江戸時代後期の内政・外交史上の重要な人物である。
  平成十一年三月  新宿区教育委員会」

   
 

<淀橋七地蔵>

 「淀橋七地蔵」は、昭和5(1930)年6月に発覚した七乳児絞殺死体トランク詰事件の供養のため、同年7月に青山の石勝が建立。
 標柱には7人の子どもが半肉彫りされています。裏面には協賛会の多くの氏名が刻まれています。

     

  

「記
 淀橋七地蔵は、昭和の初め、惨酷を極めた大久保町の貰子殺し夫婦の手により哀れな死を遂げた男女七児の霊を弔うため、当時の淀橋警察署長や同町長等が相談の上、常円寺住職の及川真能師が施主となられて、昭和五年六月七日同寺に葬り「弔男女七児之墓」の墓標と「弔生年月日死亡年月日不明男女子之霊」と記された七本の卒塔婆を建てて懇ろに供養されました。此の事を伝え聞いた青山の石勝さんが地蔵尊七体を刻んで寄附されたので、七地蔵協賛会が組織され多くの情けある人々の手により同年七月十日無縁行路死亡者の霊を併せて盛大なる法要を営まれました。
 その後戦争そして敗戦という悲惨な時代もありましたが、助産婦会・区医師会・各町会のそれぞれの有志の方々により毎年心の籠った供養が続けられて来ました。
 水子地蔵尊は、此の度周囲の人達の都合だけで闇から闇へと名も記されず泡のように消されていった無数の哀れな生命を憐れみ、「この次にはきっと幸せに生れて来なさいよ」という願いをこめて、各町会・助産婦会・医師会その他の心ある人々が地蔵菩薩の碑を建てられ毎年九月二十日午後二時から御供養が続けられています。
 私達の親戚や友人・知人・隣人にもこのような不幸なことに全く関係のないという人は少ないことと思います。どうか香華を手向けて此の世に縁の薄かった水子の霊を慰めて下さい。  合掌
  昭和五十三年秋彼岸
    淀橋七地蔵 新宿水子地蔵尊 供養会」

   
 

<歯塚>

 詳細不詳の歯塚があります。

  


常泉院(新宿鬼子母神) 新宿区西新宿7-12-5

 常泉院は、常圓寺の西隣りにあり、鬼子母神像が祀られています。

  


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