Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 柴又

  ○ フーテンの寅像と見送るさくら像
  ○ 帝釈天参道
  ○ 柴又帝釈天遺跡
  ○ 柴又帝釈天


フーテンの寅像と見送るさくら像 葛飾区柴又4-8-14

 柴又駅(大正元年開設)の柴又駅前広場に寅さんと見送るさくら像があります。
 「フーテンの寅像」は平成11(1999)年、「見送るさくら像」は、平成29(2017)年3月の設置です。

   

「フーテンの寅像」

    

   
 

「寅さんは損ばかりしながら生きている
 江戸っ子とはそういうものだと
 別に後悔もしていない
 人一倍他人には親切で家族思いで
 金儲けなぞは爪の垢ほども考えたことがない
 そんな無欲で気持ちのいい男なのに
 なぜかみんなに馬鹿にされる
 もう二度と故郷になんか帰るものかと
 哀しみをこらえて柴又の駅を旅立つことを
 いったい何十辺くり返したことだろう
 でも 故郷は恋しい
 変わることのない愛情で自分を守ってくれる
 妹のさくらが可哀想でならない
 ―ごめんよさくら いつかはきっと偉い
 兄貴になるからな―
 車寅次郎はそう心に念じつつ
 故郷柴又の町をふり返るのである
 一九九九年八月 山田洋次」

  
 

「男はつらいよ・シリーズ」は平成八年八月主演の渥美清さんが急逝されたことで終わりを告げました
私たちはこの映画を偲んで 寅さんの像を建立することを思い立ち百円募金を計画したところ 全国のファンの方が こころよく参加してくださいました
その大勢の方たち一人ずつに名前を書いていただき その芳名録をこの像の台座の中に収めてあります
毎月十日を「寅さんの日」と定め 故郷柴又を愛してやまなかった
私たちの寅さんを いつまでも大切にお守りさせていただきます
  柴又 神明会」

  
 

「昭和四十四八月第一作「男はつらいよ」が公開されてから平成八年正月の「男はつらいよ・寅次郎 紅の花」までの四十八作は世界映画史上に突出したシリーズ映画です
この輝かしい積みかさねは 山田洋次監督とスタッフ及び渥美清さんほかの出演者によることは勿論ですが なんといってもこの映画を全国のファンが心から愛してくれたからでした
そして特に ここ葛飾柴又の皆さんには温い人情と熱い思いで映画「男はつらいよ」と寅さんを支えていただきました
このたび由縁の地に 全国のファンの皆様のお志により 像が建立されましたことは わが社にとって大変嬉しいことです
心より御礼を申し上げます
 平成十一年八月  松竹株式会社」

  
 

「見送るさくら像」

    

「ーある別れ
 さくらは失恋して旅に出る寅を駅まで見送ることにする
「いいんだよ、忙しいんだろお前」と言いながらもその思いやりがみにしみるほど寅は傷ついていた
 駅前でさくらは立ち止まる
「それじゃお兄ちゃん身体に気をつけてね」
「あゝ」と無造作にうなずいて駅舎に向かう寅の足がふと止まりふり返る
「おい」
「なあに」
「満男に一生懸命勉強しろと言っとけよ」
「うん、わかった」
乱暴な口調で言いすててスタスタと改札口にむかう寅
 さくらは踵を返し、秋の終わりを思わせる冷たい風が吹く中を家路につく
  二○一七年三月  山田洋次」

   


帝釈天参道 柴又7丁目1番〜3番〜6番・7番

 柴又駅を出て帝釈天橋を渡ると題経寺山門まで続く、緩やかに湾曲した約200mの参道です。
 店頭対面販売形式の店舗が並んでいます。
 「葛飾区柴又帝釈天門前参道商店街神明会」HP
 

<国選定重要文化的景観>

 帝釈天参道、題経寺(柴又帝釈天)、柴又駅の一帯が、平成30(2018)年2月、国の重要文化的景観に選定されています。

   
 

<帝釈橋> 葛飾区柴又7-1

 石橋の「帝釈橋」を渡って、帝釈天参道へ。

  
 

<三猿像> 葛飾区柴又7-1-16

 帝釈天橋の右手の用水路に、三猿像が佇んでいます。

    
 

<寅さん人形> 葛飾区柴又7-1-5

 「柴又観光案内所」の前に建つ「寅さん人形」です。

  
 

<帝釈天安置石塔> 葛飾区柴又7-3-7

 参道入口左手に、「帝釈天安置石塔」があります。
 裏面に嘉永2(1849)年の銘が刻まれています。
 台座や玉垣には、造立に関わった歌舞伎役者や江戸市中の人々の名が刻まれています。

 「帝釋天安置
  南無妙法蓮華経」

    
 

<常夜灯> 葛飾区柴又7-3-8

 参道入口右手に、「常夜燈」と、その後ろに「参道改修記念碑」があります。
 常夜燈は、渥美清の奉納です。

 「常夜燈 寄贈 渥美清」

    
 

<映画の碑> 葛飾区柴又7-3-8

 常夜灯の隣にあります。山田洋次監督の揮毫です。

 「私 生まれも育ちも
  葛飾柴又です
  帝釈天で産湯をつかい
  姓は車 名は寅次郎
  人呼んで
  フーテンの寅と発します
         山田洋次」

  
 

<参道石塔>

 帝釈天安置石塔の先の参道両脇に石塔があります。左の石塔には猿像がいます。
 江戸時代の造立かと思いきや、明治28年の銘が刻まれています。

    

    
 

<店頭の車寅次郎像/庚申だるま>

 車寅次郎像がショーケースに入っています。
 庚申だるまを売っていました。

   
 

<葛飾鳶共同組合設立記念碑> 葛飾区柴又7-6-14

 現在も、梯子乗りの技を披露されているようです。

   


柴又帝釈天遺跡 葛飾区柴又7-7-10

 参道の終わり、右手のトイレ前に、「柴又帝釈天遺跡」碑があります。
 柴又帝釈天遺跡からは、奈良時代の建物跡と井戸などが見つかっています。

(説明板)

「柴又帝釈天遺跡
 この一帯は柴又帝釈天を中心に分布する古墳時代後期から奈良・平安時代の遺跡地です。柴又は、奈良の正倉院に伝わる日本古代史上著名な「養老5年(721)下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」に記載されている嶋俣里の故地として知られています。
 最近の調査では、古代の住居跡・井戸跡や多量の土師器・須恵器などが出土しており、郷土「かつしか」の歴史を知る上でも、貴重な遺跡です。
  平成元年3月  葛飾区教育委員会」

   


柴又帝釈天(経栄山題経寺) 葛飾区柴又7-10-3 HP

 庚申信仰により多くの参詣者を集めていた江戸近郊の寺です。

「新編武蔵風土記稿 葛飾郡之八」

 題経寺境内図が掲載されています。題経寺由来の松が見えます。
 また本尊の挿絵が掲載されています。 
 板本尊は中世の一時期、行方不明になっていました(本尊が行方不明とはどういうことですかね)。
 安永8(1779)年庚申の日、中興の祖、日敬上人が本堂の天井裏から本尊を発見しました。
 板本尊は庚申の日に開帳されます。墨を塗って紙などに写し取って配っていたので、板本尊は真っ黒なようです。

   
 

「絵本江戸土産 帝釈天」(広重)

 挿絵には「帝釈天ハ柴又村にあり 庚申の日ハ都鄙の貴賎群参す 利根川を見越して鴻の臺の眺望最よし」とあります。
 田圃の中の参道を多くの人々が行きかっています。

  
 

<二天門> 葛飾区文化財

 明治29(1896)年の建築。日光東照宮の陽明門を模したと言われ、木鼻や組物間に彫刻が施されています。
 平安時代の作といわれる増長天と広目天の二天像を安置しています。

    

(説明板)
「葛飾区登録有形文化財
   題経寺(柴又帝釈天)
   諸堂内及び二天門   建築彫刻一括
     所在地 葛飾区柴又七丁目10番3号
     登録年月日 平成4年2月5日
 帝釈堂、祖師堂、二天門、には多くの木彫による建築浮彫装飾が施されています。特に帝釈堂は設計林門作、棟梁坂田留吉の指揮のもとに作られました。内陣外側の胴羽目彫刻10枚は法華経説話を題材にして、加藤寅之助・金子光清・木嶋江運・石川信光・横谷光一・石川銀次朗・加府藤正一・山本一芳・今関光次・小林直光等の彫刻師により制作されました。大正12年(1923)9月、それぞれの彫刻師のもとに運ばれていた欅の彫刻材は、関東大震災によって、すべて焼失しました。その後欅材を全国に求め、発願から十数年の歳月を費やし、10枚の胴羽目彫刻は昭和9年に完成しました。
 彫刻の下絵は高山栄州が描いています。胴羽目の寸法はそれぞれ縦1.27m、横2.27m、厚さ20cm襖一枚の大きさです。
 他堂や二天門の内外に、施された彫刻も、同じように貴重なものです。
  葛飾区教育委員会」

  
 

<帝釈天境内案内図/柴又帝釈天周辺地域案内>

   

  
 

<大鐘楼堂>

 昭和30(1955)年の建築です。

  
 

<釈迦堂(開山堂)> 葛飾区文化財

 二天門を入った右手、本堂の右手前にあります。
 江戸末期に建立された寺内最古の建築で、釈迦如来立像と、開山日栄上人と中興の祖日敬上人の木像を安置します。

    
 

<祖師堂(本堂)> 葛飾区文化財

 釈迦堂の右側、釈迦堂(開山堂)の左手にあります。拝殿と内殿が前後に並んで建ちます。

  
 

<帝釈堂> 葛飾区文化財

 参道正面に位置し、拝殿と内殿が前後に並んで建っています。
 内殿に帝釈天の板本尊を安置し、持国天と多聞天(毘沙門天)を安置しています。
 内殿は大正4(1915)年、拝殿は昭和4(1929)年の建築です。
 内殿の外部は法華説話を題材とした彫刻で埋め尽くされ、建物はガラスで覆われ、「彫刻ギャラリー」として有料公開されています。

     
 

<柴又七福神>

 柴又七福神の毘沙門天を祀っています。

  
 

<瑞龍のマツ> 東京都文化財(天然記念物)

 「新編武蔵風土記稿」の境内図に松が見えます。
 開基の日栄上人が、見事な枝ぶりのマツと、その下に霊泉が湧いているのを見つけ、この地に庵を設けました。

     

(説明板)
「東京都指定天然記念物(植物)
 瑞龍のマツ
 所在地 葛飾区柴又七丁目一七五一番一
 指定 平成二八年三月一一日
 「帝釈天」の名で知られる経栄山題経寺。その参道から二天門をくぐって境内に入ると正面に帝釈堂が建っており、その帝釈堂の手前、向かって左に生えているのが瑞龍のマツです。
 幹は上方にまっすぐ伸び、大枝は北、南、西の三方に長く伸びています。そのうち、西の枝は石畳に沿うように伸び、南北の枝は帝釈堂を守護するかのように庇の前に伸びています。その生き生きとした姿は、頭を空に向け、尾を西に伸ばして天に昇る「龍」のようです。
 縁起によると、題経寺は寛永六年(一六二九)創建で、開基の日栄上人が柴又に寄った際、見事な枝ぶりのマツと、その下に霊泉が湧いているのを見つけ、この地に庵を設けたことがその始まりとされています。この時に日栄上人が見た木が、瑞龍のマツとされています。
 瑞龍のマツは、帝釈堂正面と一体となって景観をなしており、また帝釈天題経寺の創建の由来を伝える銘木、巨木として重要です。
  平成二九年三月 建設  東京都教育委員会]

  
 

<御神水/水神/浄行菩薩>

 江戸時代に、日栄上人が瑞龍の松の根元に湧くこの水を発見したと伝わります。
 現在は地下水をポンプで汲み上げており、水量は豊富です。
 水質は、少々鉄分を含んでいるようです。
 黒ボクを組んで水神様が祀られています。
 横のお堂には、浄行菩薩がおられます。

    

     
 

<大客殿> 東京都歴史的建造物

 本堂続きの奥に大客殿があります。有料公開されています。

(説明板)
「東京都選定歴史的建造物
 柴又帝釈天題経寺大客殿
   所在地  葛飾区柴又七丁目10番3号
   設計者  大工棟梁 鈴木源治朗
   建築年  昭和4年(1929)
 帝釈天題経寺は寛永年間に創建された日蓮宗の寺院で、境内には、文化・文政の頃の釈迦堂をはじめ、明治以降に建てられた諸堂が多く現存する。
 北側の和風庭園(邃渓園)に面した大客殿は、信徒の接待所として設計された建物で昭和4年(1929)に完成した。この年には釈迦堂拝殿の造営も行われている。
 建物は木造、平屋建、総檜造りで、屋根は入母屋、桟瓦葦き。ガラス障子の広縁を巡らし、縁の正面中央に張り出し部分を設けているところが外観上の特徴である。建物内部は四部屋からなる書院造りで、一番奥の頂経の間が上段の間である。天井には杉の一枚板を鏡板に用い、折上げ部分に漆を塗っている。また、床の間には近江の伊吹山山麓にあった「日本一」と言われる大南天の床柱がある。
  東京都生活文化局」

  
 

<遂渓園> 東京都文化財(名勝)

 有料公開されています。

(説明板)
「東京都指定名勝
 題経寺遂渓園
   所在地 葛飾区柴又七丁目一七五一番一
 指定 平成二八年三月一一日
 遂渓園は、題経寺寺域の東、約二○○○平方メートルの広さをもつ寺院庭園です。その歴史は、大正十五年(一九二六)発行の『東京府下帝釈天境内全図』に庭園が描かれていることから、その前後に作庭されたと思われます。その後、庭園は昭和初期に第一六代観明院日済上人より依頼を受けた庭師、永井楽山(一八八○〜一九七一)が大幅に手を加え、昭和四○年(一九六五)、ほぼ現在の姿に完成しました。
 元々は、昭和四年(一九二九)に落成した大客殿から眺める座観式庭園でしたが、昭和三十五年(一九六○)に大回廊が建てられ、現在は大客殿の広縁を通って回遊することができます。
 東西に長い庭園敷地は、その北側半分を池泉とし、北西に築山、北東に中島を配しています。築山頂部から流れる滝は二段落ちで、池側に張り出した汀線や中島により、流路は大きく蛇行しているように見え、東端の流末に至ります。永井楽山は、この滝がもつ幽邃な風情から、本庭園を「邃渓園」と名付けました。
 庭園南側は開放的な芝庭で、大客殿より嵩上げすることで、芝がより近くに見えるような錯覚が起ります。この錯覚は、奥の池泉を大きく感じさせる効果もあり、大客殿広縁からの景色に奥行きが生まれるのです。
 瀬戸御影石や京都加茂川の赤石、京都桂川の自然石を使った蹲(つくばい)など、庭園には名石がふんだんに使われています。また、園池南東には、茶室「不答庵」が設けられています。
 永井楽山作庭の邃渓園は、様々な技巧を配し、東京低地の一画に幽邃な渓谷を再現した芸術的価値の高い寺院庭園です。
  平成二九年三月 建設  東京都教育委員会」

  
 

【諸碑】
<帝釈天出現由来碑>

 この碑は安永8(1779)年に、題経寺本堂改修のとき発見した日蓮聖人自刻の帝釈天板本尊を、
 後世に伝えるため、その由来と功徳を記して建てられました。

   

(説明板)
「葛飾区指定有形民俗文化財
 帝釈天出現由来碑
    所在地 葛飾区柴又七丁目10番3号
    指定年月日 昭和574年2月13日
 この碑は、安永8年(1779)題経寺本堂改修のとき発見した日蓮聖人自刻の帝釈天坂本尊を後世に伝えるため、弘化2年(1845)俳人 鈴木松什および檀徒 石渡忠右衛門等が協力し、その由来を記し、併せて帝釈天の功徳を述べている。
 碑の総高1.48m、撰文は宮沢雉神遊、書は萩原キ、刻者は窪世昌である。題経寺縁起の整ったものは、明治29年(1896)に作成されたが、碑は、それ以前における由緒資料として貴重である。
  葛飾区教育委員会」

  
 

<帝釈天御本尊出現三百年記念>

 納主は、足立市場青果柴又講です。

  
 

<人生劇場 青春立志の碑>

 尾崎士郎の「人生劇場」の碑があります。

    
 

「尾崎士郎肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像
  明治31(1898)年2月5日〜昭和39(1964)年2月19日

  
 

水原秋桜子の句碑>

 青春立志の碑の横に「水原秋桜子の句碑」が建っています。
 「木々ぬらし石う可ちつひに春の海 秋桜子」
 同じ句碑が長命寺(練馬区高野台)にあります。こちらで記載

   
 

<草木供養之碑>

 「東京造園業組合」創立60周年記念事業として草木供養之碑を平成16(2004)年6月建立。

 「草木供養之碑
     東京都知事
     石原慎太郎」

   
 

<蓮花と3人の子ども像(噴水)>

 覆屋根の中にあります。

   
 

<二仏>

 左は、十一面観音像(明応2(1493)年)。
 廃仏毀釈で、富士山からこの地に据えられています。
 右は、大日如来像(江戸時代初期)。

  


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