○ 洗足池
・江戸名所図会 洗足池 袈裟掛松
・絵本江戸土産 千束池袈裟掛松
・名所江戸百景 千束の池袈裟懸松
・東京都指定名勝 洗足池公園
・中原街道改修記念碑
・ボートハウス屋上展望台
・洗足池案内図
○ 勝海舟ゆかりの地「周辺散策」
○ 勝海舟別邸(洗足軒)跡
洗足池は一周約1.2kmの池です。
池の南側は中原街道に面しており、中原街道改修記念碑があります。
池の東側には大田区立洗足池図書館、妙福寺と日蓮上人袈裟掛松、勝海舟別邸(洗足軒)跡、勝海舟夫妻の墓と西郷隆盛の史跡があります。
池の北側には弁天島に弁財天の祠が祭られています。
池の西側には千束八幡神社、源頼朝ゆかりの名馬・池月の銅像や三連の太鼓橋「池月橋」があります。
「千束池」「袈裟掛松」「八まん」「中原街道」が描かれています。
「八まん」には、ニ基の鳥居が見えます。
「東都近郊図」(文政8(1825)年 国立国会図書館蔵)
「千束池」「日蓮ケサカケ松」が見えます。
(説明板)
「東京都指定名勝 洗足池公園
所在地 大田区南千束ニ丁目一番四号 外五三筆
指 定 平成三一年三月一五日
区立洗足池公園は、清水窪湧水などを主な水源とする淡水池の佳景で古くからよく知られています。「洗足」の名は日蓮聖人が手足を洗ったという伝承にちなむと言われ
ています。
江戸時代には数多くの文芸作品や絵画作品に取り上げられ、浮世絵師・歌川広重が描いた「名所江戸百景・千束の池袈裟懸松」はことに有名です。
明治ニ三年頃には、晩年の勝海舟が東岸に別荘「洗足軒」を築き、後に夫妻の墓地も造られました。公園近くの国登録有形文化財「旧清明文庫」は、昭和初期に海舟の遺蹟の保存などを
目的に建てられ、現在は区立勝海舟記念館として活用されています。
昭和五年に都市計画法に基づく「風致地区」に指定されると、同八年には地元有志が社団法人洗足風致協会(現 公益社団法人洗足風致協会)を設立し、現在まで積極的に環境保全活動を続けています。
池の周辺には『平家物語』に登場する源頼朝の愛馬「池月」の伝承がある千束八幡神社のほか、国登録有形文化財の「妙福寺祖師堂(旧七面大明神堂)」、厳島神社のある弁天島、三連太鼓の形状が印象的な池月橋、樹林帯の桜山・松山があり、ニ三区内でも有数の散策地として親しまれています。
令和ニ年 二月 建設 東京都教育委員会」
大正6年から12年(1917〜1923年)にかけて中原街道の改修工事が行われたことを伝える記念碑です。
大正12(1923)年の建立です。
洗足池図書館に「勝海舟ゆかりの地「周辺散策」」の掲示などがあります。
(説明板)
「勝海舟別邸(洗足軒)跡
勝海舟(一八ニ三〜九九)の別邸は戦後間もなく焼失しましたが、茅葺きの農家風の建物でした。
鳥羽伏見の戦い(一八六八)で幕府軍が敗れると、徳川慶喜より幕府側の代表として任じられた海舟は、官軍の参謀西郷隆盛(南洲)と会見するため、官軍の本陣が置かれた池上本門寺に赴きました。
その会見により江戸城は平和的に開けわたされ、江戸の町は戦禍を免れたのです。海舟は江戸庶民の大恩人と言えるでしょう。
その際、通り掛かった洗足池の深山の趣のある自然に感嘆し、池畔の茶屋で休息したことが縁となり、農学者津田仙(津田塾大学創始者、梅子の父)の仲立ちで土地を求めました。
明治ニ十四年(一八九一)自ら洗足軒と名付けた別邸を建築し、次のような歌を詠んでいます。
池のもに 月影清き今宵しも うき世の塵の跡だにもなし
晩年海舟は晴耕雨読の生活の中で、かえで、さくら、松、秋の草々などを移し植え次のようにも詠んでいます。
うゑおかば よしや人こそ訪はずとも 秋はにしきを織りいだすらむ
明治三十ニ年(一八九九)七十七歳で没しましたが、「富士を見ながら土に入りたい」との思いから、生前より別邸背後の丘に墓所を造りました。
石塔の「海舟」の文字は徳川慶喜の筆と伝えられています。当初は海舟一人の墓所でしたが、後に妻たみも合祀され、大田区の史跡に指定されています。
平成十一三月 勝海舟没後百年を記念して 公益社団法人 洗足風致協会」