○ 池月橋
○ 新東京八名勝千束池
○ 洗足池の詩碑
○ 池月像
○ 千束八幡神社(洗足池八幡宮)
名馬・池月の伝説から名付けられた池月橋です。
平成28年(2016)竣工の新しい橋です。
昭和7(1932)年に報知新聞社が「新東京八名勝」を選定、その記念碑が建っています。
(参考)
【新東京八名勝】
池上本門寺 西新井大師 北品川天王社 日暮里諏訪神社 赤塚の松月院 目黒の祐天寺 洗足池 亀戸天神
【新東京十六景】
雑司ヶ谷鬼子母神の森 大井の大仏 水元の水郷 奥沢の九品仏 新井薬師 柴又帝釈天 目黒不動 篠崎堤の桜 堀切の花菖蒲 善養寺の松 哲学堂 三宝寺池 大宮八幡 滝野川の渓流 丸子多摩川の丘 豊島園
「昭和四十八年 存誠舎主人清超金子哲太郎」とあります。
源頼朝の馬で、佐々木高綱に与えられ活躍した名馬・池月の銅像です。平家物語に登場します。
(銘板)
「名馬池月の由来
治承四年(一一八○年)源 頼朝が石橋山の合戦に敗れて後、再起して鎌倉へ向かう途中ここ千束郷の大池(今の洗足池)の近く八幡丸の丘に宿営して近隣の味方の参加を待った。
或る月明の夜に何処からか一頭の駿馬が陣営に現われ、そのいななく声は天地を震わすほどであった。家来達がこれを捕えて頼朝に献上した。馬体はたくましくその青毛は、さながら池に映る月光の輝くように美しかった。これを「池月」と命名し頼朝の乗馬とした。
寿永三年(一一八四年)有名な宇治川の合戦に拝領の名馬池月に佐々木四郎高綱が乗り、磨墨に乗った梶原源太景季と先陣を競い、遂に池月が一番乗りの栄誉に輝いた。と、史書に伝えられている。
ここに名馬池月の銅像を造り、この名馬池月発生の伝承を永く後世に伝えようとするものである。
平成九年十月月吉日
洗足風致協会創立六十五周年記念
社団法人 洗足風致協会」
「池月発祥伝説の由来
池月とは「宇治川先陣物語」にある名馬の名である。
治承四年八月(一一八○)頼朝、相洲石橋山の合戦に敗れて安房に逃れこの地の豪族、千葉常胤、上総介広常、等の参向を得再挙して鎌倉に向ふの途次こゝ千束郷の大池に宿営し八幡丸の丘を本陣として近隣諸豪の参陣を待つ、折からの皓月池水に映るを賞でつる折ふし何處方よりか一頭の野馬、頼朝の陣所に向かって飛来り嘶く声、天地をふるはすばかりであった。
郎党之を捕へて頼朝に献ずるに馬体あくまで逞しく青き毛並に白き斑点を浮べ恰も池に映る月影の如くであった為之を池月と命名して自らの料馬とする。
頼朝先に磨墨を得、今またこゝに池月を得たるは之れ征平の軍すでに成るの吉兆として勇気百倍し来れりと云ふ。士卒之を伝へて征旗を高く掲げ歎声やまざりしとか。
当八幡宮の別名を「旗上げ八幡」と稱するはこの故事による。寿永三年春(一一八四)頼朝木曽義仲を京師に攻む。義仲宇治、勢田の両橋を徹し河中に乱杭逆茂木を設けて寄手の渡を阻まんとす、この時鎌倉出陣に際し各々頼朝に乞ふて賜りたる名馬二頭の中、梶原景季は磨墨に、佐々木高綱は池月に打ちまたがり共に先陣を争った。史書に云ふ宇治川先陣争いである。
池月一代の晴れの場所でこの一番乗りの功名が今に至るまで名馬の誉れを伝へてゐる。
この池月の誕生地が当八幡であって即ち池月発祥伝説の起こりである。
古くより里人の間に語り継がれ大井町線の駅名に(今の北千束駅)、又町会名にもなってゐたが、今はない。
遠き治承の昔より光芒すでに八百秋、時代の変遷と共にこの伝説の忘失を惜しみ誌して後世に伝へんとする。
尚磨墨を葬せし磨墨塚は南馬込に現存する。
氏子青年有志による池月太鼓は即ちこの伝説を太鼓に托したものであり毎年九月の祭日に奉納されてゐる。
池月の
蹄の音か
揆の冴え
平成四年三月 千束八幡神社
洗足風致協会」
<名馬池月絵馬>
拝殿脇に、巨大な絵馬が奉納されています。
「宇治川先陣」(歌川国芳 東京富士美術館蔵)
寿永3(1184)年1月、木曽義仲と、源頼朝が派遣した源範頼・源義経との間で行われた「宇治川の戦い」の様子が描かれています。
中央に頼朝より賜った名馬「池月」を駆る「佐々木四郎高綱」が波しぶきを上げながら岸に駆け上がり先陣を切っています。
右側後方には、高綱から馬の腹帯が緩んでいると声をかけられ出し抜かれた磨墨(するすみ)を駆る梶原源太景季の姿が見えます。
右側後方奥には、宇治川に先陣するも、渡河の途中で馬を射られた「畠山庄司重忠」が歩いている姿が見えます。
承平5(935)年、平将門の乱の平定のため藤原忠方が鎮守副将軍として派遣され、
乱を平定後、忠方は千束池の畔に館を構え、八幡宮を氏神として篤く祀ったと伝えられています。
藤原忠方は池上家の祖とされ、9代目子孫が日蓮を身延から招請しています。
また、源義家がここで戦勝祈願を行ったと伝えられます。
そして、治承4(1180)年、源頼朝が安房より鎌倉へ向かう途次に当地に宿営、
源頼朝の旗揚げの地との伝承があり「旗挙げ八幡」とも呼ばれ、「平家物語」に登場する名馬・池月の由来も伝わります。
江戸時代には城南の名勝として有名でした。
正式名称は「千束八幡神社」ですが「洗足池八幡宮」と称されます。
<朱色鳥居>
洗足池に面して一之鳥居である朱色の両部鳥居が建っています。
<社号碑/石鳥居>
社号碑は「村社 八幡神社」。
石鳥居の扁額は「八幡宮」
「御由緒
御祭神 品陀和気之命(應神天皇)
當社は千束八幡神社と稱し 平安前期の貞観二年豊前國宇佐八幡を勧請し往時の千束郷の總鎮守としてこの巒上に創建せられ 今日に至る。
遠く千百余年の昔より この地の氏神として尊崇せられ 普く神徳を授けてこらる
承平五年 平将門の乱が起る 朝廷より鎮守副将軍として藤原忠方が派遣せられたり 乱後忠方は池畔に館を構え、八幡宮を吾が氏神として篤く祀りき 館が池の上手に当たるに依りて池上氏を呼稱 この九代目の子孫が日蓮を身延から招請す 之池上康光なり
又八幡太郎義家奥羽征討の砌 この池にて禊を修し 社前に額つき戦勝祈願をなし出陣せりと伝えらる 源頼朝も亦鎌倉に上る途次 この地を過ぐるに八幡宮なるを知り 大いに喜び此処に征平の旗幟を建つる哉 近郷より将兵集まりて 鎌倉に入る事を得 旗挙げ八幡の稱あり 名馬池月を得たるも此処に宿舎の折なりとの傳承あり
尚境内に武蔵国随一と云われし大松ありしが 大正十三年惜しくも枯衰し今はその雄姿を見るすべもなし。
古歌に『日が暮れて足もと暗き帰るさに空に映れる千束の松』と詠まれて居り 老松の偉容が想像されよう
斯の如く當八幡神社は城南屈指の古社にて亦名社なり。
宮司 恵良彰紀識」
<神楽殿>
左手に神楽殿。
<手水舎>
右手に手水舎。
<稲荷社>
手水舎の奥、右手に稲荷社。
神狐としゃもじを持った道祖神。
<神明社>
手水舎の奥、左手に神明社。
<狛犬>
天保8(1837)年奉納の狛犬です。
<拝殿>