○ 西郷隆盛留魂祠
○ 西郷隆盛留魂詩碑
○ 南洲先生建碑記
○ 勝海舟追慕碑
○ 徳富蘇峰詩碑
勝海舟によって、西郷隆盛を祀る留魂祠が建立されています。
<留魂祠>
(説明板)
「留魂祠
一、祭神 南洲西郷隆盛先生
一、例祭 毎年九月二十四日
由緒
明治維新の英傑、西郷南洲(隆盛)勝海舟の両先生は、大政奉還後の江戸城の明け渡し交渉によって、江戸の町を戦火より救われ、首都東京の基を築かれたことでも著名ですが勝先生は、晩年、この洗足池畔に洗足軒と呼ぶ別邸を設けられ、南洲先生と日本の将来について歓談されたと伝えられます。南洲先生はその後、明治十(一八七七)年の西南戦役により、故郷鹿児島に於いて子弟三千余と共に逝去されましたが、これを惜しまれた勝先生は、追慕のため南洲先生の漢詩を建碑されさらに明治十六(一八八三)年、その魂魄を招祠して留魂祠を建立せられました。留魂祠の名は、漢詩「獄中有感」の「願留魂魄護皇城」に由来するものです。
この留魂祠は、もと東京南葛飾郡大木村上木下川(現、葛飾区東四ツ木一ー五ー九)の薬妙寺境内にありましたが、勝先生の御遺志により、大正二(一九一三)年、石碑とともに現在の地へ移されました。右隣には勝先生御夫妻の奥津城(御墓所)があり、維新の両雄は、いまなほ相並んで我国の将来を見守っておられるのです。
南洲会」
「南洲西郷先生留魂祠手墨之碑」
「明治十六年九月 福田敬業書」
「西郷隆盛(南洲)留魂詩碑付近 案内板」
@西郷隆盛(南洲)留魂詩碑
勝海舟が、親交のあった西郷隆盛(南洲)の死をいたみ、詩とその筆跡を残すため、三回忌にあたる明治12年(1879)に自費で建てたものです。もとは葛飾区の浄光寺にあったものが、大正2年(1913)の荒川開削工事に伴い当地に移設されました。
内容は西郷が沖永良部島の獄中で作った七言律詩で、天皇に対する忠誠心が詠まれています。「願留魂魄護皇城」の文言から留魂詩と称されました。背面には勝の撰文で由来が記されています。
朝蒙恩遇夕焚坑
人世浮沈似晦明
縦不回光葵向日
若無開運意推誠
洛陽知己皆為鬼
南嶼俘囚独竊生
生死何疑天付与
願留魂魄護皇城
獄中有感 南洲
朝に恩遇を蒙り夕に焚坑せらる
人世の浮沈は晦明に似たり
縦ひ光を回らさざるも葵は日に向ふ
若し運を開く無きも意は誠を推さむ
洛陽の知己皆鬼と為り
南嶼の俘囚独り生を竊む
生死何ぞ疑はむ天の附与なるを
願はくは魂魄を留めて皇城を護らむ
獄中感有り 南洲
A留魂祠
明治16年(1883)の西郷隆盛七回忌に際して、勝海舟から同志達に留魂詩碑の存在が明かせられると、彼らはその傍らに小祠を建てて「留魂祠」と名づけ西郷の霊を祀りました。詩碑と同じく大正2年に当地へ移設されたものです。
B南洲先生建碑記
留魂詩碑の工事を勝海舟に任された玉屋忠次郎が明治16年(1883)に建てたものです。
留魂詩が明治12年7月27日に彫刻され、谷中の石工群鶴の元から浄光寺に至る経緯が記されています。
なお、Cの追慕碑によると当地への運搬建設も群鶴が実施しています。
C勝海舟追慕碑
大正2年(1913)に勝海舟門下生の富田鐡之助が記したもので、留魂詩碑が建立されてから現在地へ移設されるまでの経緯や、有志により留魂祠が建てられたことが記されています。
D徳富蘇峰詩碑
昭和12年(1937)数名の者が計画し、勝海舟門下生の1人であった徳富蘇峰(1863-1957)に詩を書いてもらい建てたものです。勝と西郷隆盛によって江戸庶民の命が救われた偉業を称え、両雄を偲ぶ内容が刻まれています。この碑が完成した際に、隣接する清明文庫で記念講演が開かれており、その様子が写真で残されています。
大田区教育委員会事務局 文化財担当
「昭和十二年
堂々錦旆壓関東百万死
生談笑中群小不知天下
計千秋相對兩英雄
火國後學 蘇峯菅原正敬」