○ 勝海舟夫妻墓所
○ 東京奠都七十周年記念碑
<勝海舟の墓入口>
(説明板)
「大田区文化財 勝海舟夫妻の墓
勝海舟、諱(いみな)は義邦、初め麟太郎、後に安房または、安芳と改め、海舟と号した。文政六年(一八ニ三)江戸に生れる。幕臣として万延元年(一八六○)咸臨丸で渡米、海軍奉行となり明治元年(一八六八)江戸開城に尽力する。
維新後は海軍卿、伯爵、枢密顧問官などを歴任し、漢詩、書を好み、高橋泥舟・山岡鉄舟とともに幕末三舟と称せられた。
洗足池やその周辺の風光を愛し、明治三十ニ年(一八九九)没後遺言によりこの地に葬られた。
別荘洗足軒(現在は大森六中)で次の歌をよまれた。
千足村の別墅に 楓樹数株を植ゑて
うゑをかば よしや人こそ 訪はずとも
秋はにしきを 織りいだすらむ
染めいづる 此の山かげの 紅葉は
残す心のにしきとも見よ(飛川歌集より)
昭和四十九年ニ月ニ日指定 大田区教育委員会」
<勝海舟夫妻墓所付近 案内板>
「@勝海舟夫妻墓所【大田区指定史跡】
勝海舟は、官軍のおかれた池上本門寺に赴く途中で休んだ洗足池の景勝を愛し、明治24年(1891)に別邸を構え、洗足軒と名づけました(今の大森第六小学校辺り)。明治32年(1899)1月21日に77歳で没した後、遺言により当地に葬られました。同38年(1905)、妻民子が死去し、青山墓地に葬られましたが、後に改葬され、現在は夫妻の五輪塔の墓石が並んで建っています。
当史跡は昭和49年(1974)2月2日に大田区指定文化財となりました。」
「A水船(手水石)
勝海舟が亡くなった直後の明治32年(1899)6月に勝を慕う人々によって墓前に
奉納されたものです。背面には嘉納治五郎、榎本武揚、津田真道、赤松則良ら著名な人々50余人の名が刻まれています。」
「B東京奠都七十周年記念碑
昭和14年(1939)、東京奠都70周年を記念して当時の東京市長小橋一太により建てられました。勝安房(海舟)と西郷隆盛の対話によって江戸が戦火を免れ、その結果東京として大いに発展出来たことを称えています。」
「勝海舟について
文政6年(1823)江戸に生まれ、諱は義邦、通称を麟太郎、後に安房または安芳と改め、海舟と号しました。
幕臣として万延元年(1860)咸臨丸で渡米、後に軍艦奉行となるなど「日本海軍の生みの親」とも云われます。慶応4・明治元年(1868)には幕府側の代表として江戸無血開城に尽力しました。
維新後は海軍卿、枢密顧問官などを歴任し、伯爵に叙せられます。徳川家存続のために奔走したり、西南戦争で逆賊扱いされた西郷隆盛の名誉回復に努めたほか、旧幕臣とその家族への援助にも励みました。また、漢詩や書を好み、高橋泥舟・山岡鉄舟とともに幕末三舟と称されました。洗足池とその周辺の風光を愛し、「飛川歌集」には洗足軒にて詠まれた歌も掲載されています。
大田区教育委員会事務局 文化財担当」
(碑文)
「慶應三年十二月 王政古ニ復シ 翌明治元年二月大總督熾仁親王 勅ヲ奉シ 錦旗東征セラレ 三月十五日ヲ期シテ江戸城ヲ攻メシム 城兵決死一戦セントシ兵火将ニ全都ニ及バントス 時ニ 勝安芳幕府ノ陸軍總裁タリ 時勢ヲ明察シテ幕議ヲ歸一セシメ 十四日大總督府参謀西郷隆盛ト高輪ノ薩藩邸ニ會商シテ開城ノ議ヲ決シ 四月十一日江戸城ノ授受ヲ了セリ 都下八百八街數十萬ノ生霊因テ兵禍ヲ免ガレ 江戸ハ東京ト改稱セラレテ 車駕此ニ幸シ 爾来三朝ノ帝都トシテ殷盛比ナシ 是レ一ニ隆盛安芳ノ兩雄互ニ胸襟ヲ披キテ邦家百年ノ大計ヲ定メタルノ賜ナリ 今ヤ東亞大有為ノ秋ニ方リ 當年兩雄ノ心事?潔ニシテ識見卓抜ナリシヲ追慕シ景仰ノ情切ナリ 茲ニ奠都七十年ニ際シ 兩雄ノ英績ヲ貞石ニ勒シテ之ヲ顯彰シ永ク後昆ニ傳フ
昭和十四年四月 東京市長従三位勲一等小橋一太謹識」