江戸時代、12月17日、18日は、境内に正月用の品や縁起物の品を売る露店が集まり、「年の市」と呼ばれました。
浅草寺境内は群衆で埋め尽くされました。
浅草寺境内を闊歩する鶏は、この二日間は居場所がなく、屋根の上でまごついていました。
「江戸名所図会 十二月十八日 年の市」
十二月十八日年の市の挿絵には「観音堂の西面より念仏堂の方を望む図」とあります。
群衆で埋め尽くされています。
「東都歳事記 浅草寺 年の市」
仁王門前の年の市の賑わいが描かれています。
「絵本江戸土産 浅草観世音境内年の市」(広重)
挿絵には
「浅草観世音の境内にて極月十七十八の両日年の市とて注連飾の類より都て春待つ料具を鬻ぐ諸人蟻のごとく群集して是を調ふ」
とあります。
「六十余州名所図会 江戸 浅草市」(広重)
年の市では、江戸末期頃より羽子板を売る店が多くなり、
この浮世絵には羽子板を売っているのが見えます。
色々なものが売られていますが、神棚まで売られています。
「東都名所 浅草金竜山年ノ市」(広重)
年ノ市の雪景色が描かれています。
広重は、絵本江戸土産で「諸人蟻のごとく群集して」と記載しており、まさに蟻の群集です。
傘をさした白い群衆と、本堂に上がって傘をたたんだ黒い群衆のコントラストが絶妙と思います。
「江戸自慢三十六興 浅草年之市」(二代広重、三代豊国)
「東京開化狂画名所 浅草観音年の市旧弊の仁王」(月岡芳年 明治14年 足立区立郷土博物館蔵)
年の市の賑わいに誘われたのか、観音様も仁王を連れてお歩きになっています。
江戸時代の節分は、旧暦の立春前日(12月後半から1月前半)に行われていました。
宮中で行われていた「追儺(ついな)」という行事が大晦日の夜に行われていたのが節分の豆まきの起源です。
「東都歳事記 亀戸天満宮 追儺』
亀戸天神の「追儺」の儀式が描かれています。
「追儺」は本文には「オニヤライ」と振り仮名がふられています。
「北斎漫画」(葛飾北斎)
北斎が豆まきを描いています。
「江戸名所図会 節分會」
本文には
「節分會 この日節分の守札をいだす これを受け得んとする輩
堂中に充ちてそのかまびすしき事言葉に述べがたし」と記されています。
浅草寺の豆まきは、「観音さまの前には鬼はいないこと」にちなみ「鬼は外」とは言わず、「千秋万歳福は内」と発声するのがならわしです(浅草寺HP記載)。
なお、鬼を祀る鬼子母神や、大奥での節分でも「鬼は外」は言いませんでした。
挿絵を見ると、豆をまいてから、三社権現の神職と年男が本堂外陣の柱に登り、守札を大きな団扇であおいで遠くへ飛ばしながらまいています。
本堂では群衆がお札の争奪戦を繰り広げています。
挿絵には一つの柱しか描かれていませんが、左右の柱でまかれています。
参道に「やうじ」の看板を掲げる「楊枝店」が見えます。
東都歳事記によると、まかれている守札は、節分札と立春札の二種類で三千枚です。
「節分」の「分」の文字は刀が上に飛び出して力と書かれ、これを切って服する安産祈願を兼ねていたとのことです。
節分会が終わって信者に配る守札と併せて、総数五万枚が配られました。
守札をゲットした人々は、「節分札」と「立春札」を玄関の両脇に向かい合わせに貼りました。
なお、節分の札まきは、あまりの人出のため明治17年に禁止されましたが、
浅草寺では現在も江戸時代と同じ守札「節分札」「立春札」を授与しています。
「節分会のお札まき」
浅草寺参道に掲示の挿絵から抜粋です。
江戸名所図会と全く同じ構図で描かれています。
「千代田之大奥 節分」(楊洲周延)
大奥では、節分に「御留守居役」が豆をまきました。
御留守居役は、大奥の各部屋で「福は内」と唱え三度豆をまきます。
御台所の年齢にひとつ加えた数の豆を白紙に包み、御台所の御前にささげました。
女中が持っている三方の上に白紙に包まれた豆が見え、これから御台所のところへ持っていくようです。
豆まき役の御留守居役は、豆で「万万歳」の三文字を畳の上に書いてお祝いします。
最後に御留守居役は、女中たちに布団でグルグル巻にされ、祝い唄を歌われながら三度胴上げされます。