Discover 江戸旧蹟を歩く

 浅草寺

  ○ 江戸名所図会と浮世絵



「江戸名所図会 金龍山浅草寺」

 其一・其二・其三・其四・其五と10頁により構成されている挿絵を連結しています。

 
 

「江戸名所図会 無題」

 「浅草寺観音大子の出現」について、描かれています。

  
 

「東都旧跡尽 浅草金竜山観世音由来」(広重)

 広重が聖観音菩薩像が網にかかった場面を描いています。

  

「人皇三十四代推古天皇三十六年三月十八日 土師の臣中知家臣檜の熊乃浜成武成主従三人 早天より小舟に乗じて宮戸川に網をおろしけるが 魚はさらにかゝらずして幾度も同じ観世音の像のみかゝり給ふ 主従おどろきてこれを持帰り 家の傍に草堂をいとなみ尊像を安置し奉まつる 是すなはち今の金竜山観世音なり」

  
 

「三社権現由来」(豊国)

 聖観音菩薩像が網にかかった場面を描いています。

  
 

「宮戸川三社の由来」(国貞)

 聖観音菩薩像が網にかかった場面を描いています。

  
 

「江戸切絵図」

 江戸切絵図から浅草寺部分の抜粋です。

  
 

「東都金龍山浅草寺図」(魚屋北渓)

 浅草寺の全図がよくわかります。

  
 

「東都名所 浅草金竜山」(広重)

 浅草金竜山が詳細に描かれています。

  
 

「名所江戸百景 浅草金竜山」(広重)

 近景に雷門の大提灯、参道の傘を差している人々の先に雪を被った仁王門と五重塔が描かれています。
 本錦絵は、安政2(1855)年の大地震の翌年7月の出版です。
 地震によって曲がった五重塔の九輪は安政3年5月に修復を終えており、真っすぐに描かれています。
 7月の出版で季節外れの雪景色を描いているのは、雪景の白と浅草寺の赤の色彩が、浅草寺の復興を祝す紅白の組み合わせとなっているという説と、
 夏に「涼を呼ぶ」という説もあります。

    
 

「江戸高名会亭尽 浅草雷門前 かめや」(広重)

 「風雷神門」の右手前に、手水屋があり、高札が立てられています。
 かめや(亀屋)が描かれ「川柳狂句 蓬莱の腹を亀屋で呑直し かぶき」とあります。

  
 

「浅草観音雷神門」(北斎)

 北斎が雷門を描いています。

  
 

「江戸名所 江戸金竜山浅草寺観世音境内図」(英泉)

 本堂西からの境内が描かれており、随身門が見えます。

  



【明治期】

「浅草公園之図」(東京案内 明治40(1907)年)

 明治40(1907)年の浅草寺部分の地図です。
 現在と主に異なるのは、五重塔が参道右手にあります。観音堂の裏手に噴水があります。
 大正大震災で倒壊した十二階が存在しています。

  
 

「浅草夜見世」(小林清親 明治14年)

 五重塔は右手に描かれています。
 二王門には中央に「小舟町」、両脇に「四日市」の提灯が見えます。

  
 

「浅草寺年乃市」(小林清親 明治14年)

 手前には多くの人々が描かれ、遠景に仁王門と五重塔が見えます。

  
 

「浅草寺雪中」(小林清親 明治14年)

 観音堂から東の随身門を見たところです。

  
 

「武蔵百景 浅草寺本堂」(小林清親 明治17年)

 観音堂から東側を望んだ光景です。

  
 

「東京名所 浅草観音」(井上安治 明治20年)

  
 

「東京浅草観世音並公園地煉瓦屋新築繁盛新地遠景之図」(栄斎重清 明治19年)

 仲見世が煉瓦造りで新築された光景が描かれています。
 1コマ目:「弁天山」
 2コマ目:「浅草神社」
 3コマ目:「植六」「傳法院」

  
 

「東京名所 浅草仲見世」(井上安治 明治20年)

 仲見せが二階建の煉瓦造りになっています。

  
 

「日本之勝観」(明治36年)
「浅草仲見世の雑踏」(東京名所写真帖 尚美堂 明治43年)

 井上安治が描いた仲見世の同じアングルからの写真です。
 仲見世は二階建の煉瓦造りだったことがわかります。

   
 

「東京名所帖 浅草」(井上安治)

 仁王門を描いています。

  
 

「東京名所浅草金竜山従境内向嶋隅田川之景」(三代広重)

 桜の季節の仁王門、五重塔、随神門、三社宮、本堂が描かれています。
 仁王門の階上には人がいます。
 浅草寺の背後には隅田川が流れ、墨堤には桜が連なり、常夜燈が見えます。

  
 

「東亰開化三十六景 浅草金龍山仁王門」(三代広重)

 歩いている人が明治時代を感じさせます。

  
 

「東京名所三十六戯撰 浅草金龍山」(昇斎一景 明治5年 足立区立郷土博物館蔵)

 打毬とは、紅白に分かれて、乗馬して打毬杖をふるって地面にある紅白の毬を自分の組の毬門に早く入れることを競う競技です。
 左上に毬を入れる毬門がありますが、外国チーム、日本チームの競技者は打毬杖で毬を入れずに、打毬杖を振りまわして
 相手を馬から落とそうとしているように見えます。一人は落馬しています。
 見物人は楽しんでいませんね。

  
 

「千代田之御表 打毬上覧」(楊洲周延 明治30年)

 こちらが本来の格式ある打毬の試合です。
 打毬試合の将軍上覧が描かれています。中央の衝立に丸い穴が開いた毬門が見えます。
 宮内庁主馬班が江戸時代の様式の打毬を保存しています。「打毬(だきゅう)について」(宮内庁)

  

※以上すべて出典の記載のないものの出典は、国立国会図書館デジタルコレクションです。


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