Discover 江戸旧蹟を歩く

 浅草寺

  ○ 西境内



○ 西境内案内図

 西境内には多くの堂宇や石碑があり、一部のみのアップです。

  
 

「東都金龍山浅草寺図」(魚屋北渓)

 西境内部分の一部抜粋です。

  
 

<銅像阿弥陀如来座像> 台東区有形文化財

(台東区HP説明)説明板よりHP説明が詳しいのでこちらを掲載します。
「本阿弥陀如来坐像は銅製、鋳造で、総高が294.5センチメートル。像高は186センチメートルあります。
 本像は銘文によると、元禄6年(1693)4月に理性院宗海が三界萬霊、六親眷属、七世父、親類兄弟、有縁無縁の逆修と追善のために千日供養仏の造立を発願し、神田鍛冶町の鋳物師いもじ今井いまい藤治郎とうじろう藤原ふじわらの吉次よしつぐが制作して、浅草寺の境内に安置したものです。のち、同15年6月に両脇侍像(観音、勢至)が完成し、阿弥陀三尊像として造立されました。この両脇侍像を制作した鋳物師は、『浅草寺志』に記された銘文により、小伝馬町3丁目の鋳物師、宇田川善兵衛重賢でした。両脇侍像は勢至菩薩像の台座を除いて、現存しません。
 本像の制作者である今井藤治郎藤原吉次は、蓮華座に刻まれた銘文から神田鍛冶町2丁目(現千代田区鍛冶町2丁目)の鋳物師でした。しかし、作例については本像以外に知られていません。
 願主の理性院宗海は、浅草三間町(現駒形1丁目、雷門1丁目から2丁目、寿4丁目付近)の僧侶で、本像の造立に際して近隣地で勧募活動を行い、結縁者を募りました。結縁した人々は職人や商人等の町人が多く、さまざまな職種が見られます。また念仏行者や、念仏講中も結縁していることを考えると、宗海の勧進活動には念仏講が協力し、地縁的な繋がりの中で結縁したと考えられます。
 本像は、江戸鋳物師の作風を伝えるものとして貴重な遺品であり、江戸時代の鋳物師を考える上で基準となる作例のひとつです。さらに台座に刻まれた銘文は、江戸時代前期の信仰、宗教活動を知る上で貴重な資料です。」

   
 

<銅像観音菩薩坐像(千日参供養仏)> 台東区文化財

(説明板)

「銅像観音菩薩坐像
  台東区浅草二丁目三番一号 浅草寺
 本像は銅製、鋳造、鍍金で、大きさは総高が一六九・五センチメートル、像高は九九・五センチメートルである。
 本像は享保五年(一七二○)に尾張国知多郡北方村(愛知県美浜町)出身で諸国を遊行した廻国聖、孝山義道が発願し、神田の鋳物師、小沼播磨守藤原長政が制作した。なお造立に際しては、
近在の人々はもちろん、遠隔地からも多くの寄進を受け、その寄進者名が刻まれた。
 また本像の蓮華座は、元禄十五年(一七○二)造立の阿弥陀三尊像の脇侍(勢至菩薩)のものとして、小伝馬町三丁目の鋳物師、宇田川善兵衛が制作したものであるが、後に本像の蓮華座へ転用された(勢至菩薩像は失われている)。
 本観音菩薩坐像を制作した小沼播磨守藤原長政は、江戸時代前期に活躍した鋳物師であるが作例は少なく、本像は長政の作例として新たに確認されたものである。
 江戸時代の鋳物師を考える上で基準となる作例のひとつであり、江戸鋳物師の作風を伝えるものとして貴重な遺品である。また、像や台座に刻まれた銘文は、江戸時代前期の信仰、宗教活動を知る上で貴重な資料である。
 平成二十五年三月に台東区有形文化財(彫刻)として台東区区民文化財台帳に登載された。
  平成二十八年三月  台東区教育委員会」

    
 

<銅造宝篋印塔> 台東区有形文化財

(説明板)

「銅造宝篋印塔  台東区浅草二丁目三番一号
 宝篋印塔は「宝篋印陀羅尼経」という経典に基づいて造立された塔である。本塔は江戸時代中期以降に流行した、屋根型の笠をもつ宝篋印塔で、時代性をよく表している。
 宝篋印塔は、高さ約八メートル。西村和泉守藤原政時が宝暦十一年(一七六一)に鋳造した。西村和泉守は、代々和泉守を名乗る江戸を代表する鋳物師で、多くの作例を残している。なかでも本塔は区内に現存する銅造宝篋印塔の中でも最大のもので、近世中期の鋳物師の活動や鋳造技術を知る上でも貴重な遺品のひとつである。また本塔の造立に際しては、台座に刻まれた銘文から、様々な職種や地域からの寄進が確認でき、浅草寺に対する信仰の広がりが示される。
 安政二年(一八五五)の地震で本塔は被災したが、明治四十年(一九○七)に日露戦争凱旋記念として修復されたもので、区の歴史を知る上でも貴重である。
 平成二十三年に台東区有形文化財(工芸品)として台東区区民文化財台帳に登載された。
  平成二十四年三月  台東区教育委員会」

   
 

<石橋>

 東照宮への参道にかかっていた「石橋」で、現存する都内最古の石橋です。
 東照宮は火災により江戸城紅葉山に移設されましたが、随身門(二天門)と石橋は旧地に残されました。

(説明板)

「石橋
 現存する都内最古とされるこの石橋は、元和四年(一六一八)浅草寺に東照宮(現存せず)が造営された際、参詣のための神橋として造られたものである。寄進者は、徳川家康の娘振姫の婿、紀伊国和歌山藩主浅野長晟(広島浅野家藩祖)である。
 この石橋は昭和二十三年、文部省より重要美術品に認定されている。
  金龍山 浅草寺」
 
   
 
 

「江戸名所図会 金龍山浅草寺」

 石橋部分の抜粋です。宝篋印塔も見えます。

  
 

<西仏板碑> 東京都文化財

(説明板)

「東京都指定有形文化財(歴史資料)
 西仏板碑
  所在地 台東区浅草二丁目三番一号 浅草寺
  指定 昭和十七年九月 旧跡
     昭和五十六年三月十二日 種別変更
 建立者の西仏(さいぶつ)については明らかではないが、この板碑は彼が妻子の後世安楽を祈って建立したものと推測される。建立の年代も不詳であるが、鎌倉末から室町初期かと思われる。
 上部が破損しているが、製作時には三メートル近くあったものと思われる。寛保二年(一七四二)暴風雨によって倒れ破損、文化十一年(一八一四)に有志が側柱を立てて支えたという。材質は秩父粘板岩(青石)。
 現存の板碑の大きさは高さ二一七・九センチメートル、幅四八・○センチメートル、厚さ四・七センチメートル。
 中世の信仰を知るうえで貴重な遺品であり、かつ巨大板碑の典型例である。
  平成八年三月二十五日 建設  東京都教育委員会」

     
 

<六地蔵石燈籠> 東京都旧跡

 屋根付き建物と金網で保護されています。
 江戸名所図会でさえ文字剥落して鮮明ならずとあり、江戸時代以前の古い石造物です。

(説明板)

「東京都指定旧跡 六地蔵石燈籠
  所在地 台東区浅草二の三の一 浅草寺内
  仮指定 大正一三年二月五日
  指定 昭和三○年三月二八日
 この石燈籠はかつて元花川戸町にあったものが、明治二三年(一八九○)に現在地に移転されたものです。高さ約二三五センチメートル余り、龕部六面に地蔵を彫りつけてあります。石燈籠と呼ばれていますが「火袋(灯明部)」はありません。詳細は不明ですが、伝承では久安二年(一一四六)、久安六年(一一七○)あるいは応安元(一三六八)建立ともいわれます。現在では風化や火災の影響により、竿石に刻まれた文字などの判読は困難です。
 多くの文献に取り上げられている燈籠ですが、「江戸名所図会」などでもすでに印刻の判読が困難であったようです。そのため、都内でも古い時代の製作のものと考えられます。
  平成二四年三月  東京都教育委員会」

     

  
 

「江戸名所図会 鎌田政清造立六地蔵石燈籠」

 辻に立つ「六地蔵石燈籠」が描かれています。
 明治23(1890)年に現在地に移設されており、旧地は花川戸一丁目辺りです。

   
 

「浅草公園六地藏の石燈籠」(東京府史蹟 東京府 大正8年)

 「六地藏の石燈籠」の全体像の写真が掲載されていました。
 東京府の解説によると、棹石に兵衛の文字が見え蒲田兵衛政清(源義朝の重臣)の建立説を紹介しています。

  
 

<六角堂> 東京都有形文化財

 「都重宝 浅草寺六角堂」の石標があります。
 六角堂は元和4(1618)年の建立で、浅草寺内で最古の遺構です。

(説明板)
「東京都指定有形文化財(建造物)
 浅草寺六角堂 一棟
  所在地 台東区浅草二丁目三番一号 浅草寺
  指 定 昭和二十七年十一月三日
 六角堂は『浅草寺誌』(文化十年編)に元和四年(一六一八)の建立とあり、江戸時代初期の建立と考えられ、浅草寺内で最古の遺構である。
 木造で単層の六角造り瓦ぶき形式で、建物中央の直径は一・八二メートルあり、一面の柱真々は○・九一メートルである。
 建物の基礎は、六角形状に廻した土台を布石の基礎で支え、その下部に十一段の石積みをした一・五メートル余りの井戸状の穴が掘られている。
 六角堂という特異な形式であり、都内においては遺例の少ない建造物で、貴重な文化財である。
 もとは東方二一・八メートルの場所(現・影向堂の南基壇上に元位置の表示あり)に建っていたが、平成六年十月境内整備のためここに移された。
 東京都文化財保護条例(昭和五十一年三月三十一日改正)により文化財の指定種別を都重宝から東京都指定有形文化財に変更したので、石造標識については、このように読み替えてください。
  平成八年三月二十五日  東京都教育委員会」

     

   
 

<恵比寿天・大黒堂>

 石標「恵日寿 大黒天 弘法大師作」
 扁額は「恵日寿 弘法大師 大黒天」
 右に恵比寿天、左に大黒天。

     
 

 「江戸名所図会 浅草寺 其四」に「えびす 大こく」「銭塚弁天」が見えます。

  
 

(説明板)

「恵日寿・大黒天堂
 堂内向かって右側の恵日寿(恵比寿)左側の大黒天はともに七福神の神として広く信仰を集めている。江戸時代前期の延宝三年(一六七五)に浅草寺に奉納されたこれらの石像も、参詣の方々に穏やかな顔を見せてくれる(お堂は戦後の建立)。
 また天保十五年(一八四四)にお堂脇に建立された石碑などによると、これらの像は真言宗を開いた弘法大師空海(七七四?八三五)が造ったと伝えられている。当時天台宗であっ浅草寺においても、宗派を超えた弘法大師への信仰が見られる点は、非常に興味深い。
  金龍山 浅草寺」

  
 

<銭塚弁財天>

(説明板)

「銭塚弁財天
 弁財天さまは、七福神のお一人で仏教をお守りする善神である。芸能や学問の上達、財宝や福徳の神とされる。
 この銭塚弁財天さまは、福徳財運の弁財天さまとして、特に信仰が篤い。
  金龍山 浅草寺」

    
 

<仏頂尊勝陀羅尼碑>

 元治元(1864)年の建立。

(説明板)

「仏頂尊勝陀羅尼碑(ぶっちょそんしょうだらにひ)
「仏頂尊勝陀羅尼」とは、唱える人に息災延命などのご利益を授けるとされる、古くから信奉されてきた尊いお経である。碑の正面上部には「仏頂尊勝陀羅尼碑」と題字が、その下に梵字で陀羅尼が刻まれている。背面には漢字で陀羅尼の功徳について、末尾には造立年代である元治元年(一八六四)と制作者の名を見ることができる。
 この碑を奉納した海如(一八三七?七三)は、奈良の長谷寺などで修行した真言宗の僧侶である。碑の背面に「浅草大悲閣の下に建てた」という旨が記され、当時天台宗であった浅草寺に碑を建立した経緯は不明であるが、当寺が宗派を超えて信仰されていたことを物語る。
  金龍山 浅草寺」

   
 

<三峰神社>

 扁額は「三峰神社」、説明板は「三峯社」。
 秩父の三峯神社より勧請。

    
 

(説明板)

「三峯社
 三峯神社とは、秩父の森厳な聖地に社殿を構える古社である。天台修験の関東総本山とされ、殊に江戸時代には「三峯講」が各地に設けられ、盛んに参詣された。
 文化十年(一八一三)に編纂された『浅草寺志』をひもとくと、境内各所に様々な神社が勧請され、三峯社も弁天山に建立されていたことがわかる(戦災により焼失も再建)。本社は三峯に寄せる経験な信心とともに、明治初年の神仏分離令以前の信仰の様子を現在に伝えているのである。
  金龍山 浅草寺」
 

<九頭龍権現/金龍権現>

  
 

<一言不動尊>

 堂前左手には「百度石」があります。

(説明板)

「一言不動尊
 怒りのお姿をした不動明王さまは、そのお姿をして教化し難い者を導き、その力でわれわれの迷いの心を打ち切ってくださる仏さま。
 この一言不動尊は、何か願い事を一つに限って祈願すると、その願いがかなうとされ、古来より霊験が著しいといわれている。
 享保十年(一七二五)造立。
  金龍山 浅草寺」

   
 

<橋本薬師堂>

 徳川家光が慶安(1649)年に再建、二天門や六角堂に次ぐ古建築です。

  

(説明板)

「橋本薬師堂
  台東区浅草二丁目三番 浅草寺
 当初は観音堂の北方にあって、北薬師と呼ばれた。慶安二年(一六四九)三代将軍徳川家光が観音堂の北西に再建し、堀に架かる橋の傍らにあったので、家光自身が橋本薬師堂と名付けた。平成六年、現在の場所に移転した。
 現在の建物は、桁行三間(約五・三五メートル)、梁間三間(焼く五・一○メートル)、屋根は入母屋造、瓦葺。外部はかなり改変され、前面にあった三間に一間の向拝は取り除かれているが、浅草寺境内に遺存する堂宇のうち、浅草神社の社殿と同時代で、二天門や影向堂脇の六角堂に次ぐ古建築である。薬師如来坐像を本尊とし、他に前立の薬師如来と十二神将像が安置されている。
  平成八年三月  台東区教育委員会」

  
 

<影向堂>

(説明板)

「影向堂(ようごうどう)
 影向堂はもと本堂南東にあったものを、平成六年に浅草寺中興開山慈覚大師円仁さまのご生誕千二百年を記念して、現在地に再建されたもので、観音さまのお説法やご活躍に不断に讃嘆協力されている仏さま方「影向衆(ようごうしゅう)」をおまつりしているお堂である。
 堂内には、中央に聖観音菩薩さま、その左右に十二支に応じた生まれ年の守り本尊さま八体がおまつりされている。
 お堂の上、棟飾りには、火伏の咒いとされる金箔押しの鴟尾を置く。鴟尾を取り付ける際は不思議と雨を呼ぶといわれており、平成六年夏の建立時も記録的な日照りであったが、鴟尾を取り付けると突如として雨が降り、人々を感動させた。
  金龍山 浅草寺」

   
 

<淡島堂>

   

(説明板)

「淡島堂は、元禄年間(一六八八〜一七○三)紀伊国(現在の和歌山県)の加太神社を勧請したものである。加太神社は、淡島と呼ぶ小島に鎮座し、淡島明神の俗称があるため、この堂も淡島堂と呼ばれている。祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)、堂内には両手で宝珠を持つ坐形の神像を安置する。
 淡島明神は江戸時代より女性の守り神として、信仰を集めた。現在も毎年二月八日、ここで針供養が行なわれ、女性の参詣人が群集する。針供養は、日頃使いなれた針に感謝し、柔らかな豆腐にさし、供養する行事。かつては、この日に限り女性は針仕事をしない風習があった。
  平成八年三月  台東区教育委員会」

  
 

<針供養>

 淡島堂では毎年2月8日に「針供養会」が行われています。
 淡島堂の針供養の古くは漁師が釣り針を持ち寄りました。
 近年は、裁縫用の古針のほか、釣り針、畳針、注射針、レコード針と多様に針が持ち込まれたようですが、
 平成25(2013)年から裁縫用の古針のみに限定されているようです。
 入谷鬼子母神には「畳針供養塔」があります。

 どこの情景を詠んだのか不詳ですが、高浜虚子に針供養の句があります。
 「色さめし 針山並ぶ 供養かな」(高浜虚子)
 

<魂針供養之搭>

 昭和57(1982)年建立の大きな針供養塔があります。

 「魂針供養之塔」

   
 

<胎内くぐりの灯籠>

 説明板によると、子供の虫封じにくぐらせる灯籠で、造立年代は不明ですが、江戸時代から有名だったとのことです。

   


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