観音裏(本堂裏築山)
9代目市川團十郎「暫」像があります。
(銘文)
「銘
大正八年 江戸歌舞伎ゆかりの地 浅草の浅草寺境内に 劇聖と謳われた明治の名優九代目市川團十郎の歌舞伎十八番「暫」の銅像が作られました この銅像は 近代彫刻の先駆者新海竹太郎氏の傑作であり 歌舞伎の象徴として全國の人々から親しまれておりました ところが第二次世界大戦中の昭和十九年十一月三十日金属回収のため この「暫」の銅像も供出の命を受け 四十余年を経てまいりました
この度 十二代市川團十郎襲名を機に 復元の機運が高まり 浅草寺の御理解のもと 多くの方々に御尽力を賜り ここに「暫」の銅像が再現されました 十一代目並びに十二代市川團十郎父子 地元浅草及び松竹株式会社三者の永年の願いが叶えられたことになります
こののちも 歌舞伎の隆盛とともに この「暫」の銅像が歌舞伎の象徴として 日本國民はもとより世界の人々からも 幾久しく愛されますことを願ってやみません
昭和六十一年十一月三日 宇野信夫 撰書
九代目市川團十郎「暫」銅像復元建設委員会
十二代市川團十郎
浅草観光連盟
松竹株式会社」
「市川團十郎肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
天保9年10月13日〜明治36年9月13日(1838年11月29日〜1903年9月13日)
宝蔵門の寄進建立をはじめ、浅草寺の復興に尽くした大谷夫妻壽像で、昭和42(1967)年10月造立。
夫妻の胸像は、昭和37(1962)年に朝倉文夫により製作されています。
「消防殉難者表彰碑」は、宮内省から200円の下賜金を受け、警視庁消防職員が大正元(1916)年に建立したものです。
表彰碑の手前の2本の石柱は、昭和36(1961)年に建立された江戸消防記念会の碑です。
毎年5月25日の「弥生祭」に、江戸消防記念会により慰霊が行われています。
「社團法人 江戸消防記念會」
「市部消防組」
「如意輪観音像」左 享保20(1735)年、僧常念が建立
「地蔵菩薩像」中央 延宝5(1677)年、木食阿闍梨安信和尚が建立
「地蔵菩薩像」右 堺町の山城屋萬之助が先祖供養のために建立
「地蔵菩薩像」
法華経供養塔です。
「十万人講供養塔」
右が「十万人講供養塔」で、十万人講は、享保6(1721)年の観音堂修繕に際し、別当公然僧正が組織した講中です。
その時の施主名簿が収納されています。
左は墓石のようです。
「宮古路豊後椽の墓」
塔身には 「還國院誉本自性居士」とあります。延享3(1746)年の建立。
「釘供養塔」
「針」はよく見ますが、こちらは「釘」ですね。
裏に回れないので、詳細不詳です。
「阿弥陀如来像」
「宝篋印塔」
寛延2(1749)年に建立の宝篋印塔です。十六羅漢像が陽刻されています。
(説明板)
「一葉観音
埼玉県の秩父三十四観音札所の第三十二番法性寺の観音像を模して造られた。蓮の一枚の花びらの上に乗り、楫を持ち、笠をかぶったお姿。
新吉原の「ひで」という女の十二歳の息子久次郎が、水難事故によって亡くなったことを偲び、息子の菩提のため、また今後このようなことのないようにとの、「ひで」の願いによって造立された。
寛政九年(一七九七)に造立。唐銅製。
金龍山 浅草寺」
浅草大百科にはもう少し詳細が記されていて、一部抜粋すると、
「新吉原江戸町の質両替業万字屋の佐野ひで女によって寄進された。ひで女の子である久次郎は当時14歳。ある日、品川沖に遊山へと出かけた際に、不幸にものり船と衝突、水難死してしまう。そこで子の霊を弔おうと思ったひで女は、浅草寺と本所回向院と菩提寺の三ヵ所に数年を費やして一葉観音菩薩像を建立したという、寄進に関する言い伝えがある。」とあります。
荒澤不動堂の實圓を導師として造立された宝篋印塔とのことで、
江戸名所図会の荒澤不動堂を見ると、右手に「宝篋印塔」が見えます(形態が少々異なりますが)。
(説明板)
「宝篋印塔
宝篋印塔」とは、『宝筐印陀羅尼』という経典を収めたことに由来する仏塔で、日本では主に石塔婆の一つの形式として盛んに造立された。
この塔は江戸時代中頃安永四年(一七七五)に、境内にかつてあった荒澤不動堂の實圓を導師として造立され、銘文は江戸深川に住む書家三井親和によって揮毫された。
塔の四方には、『宝篋印陀羅尼』の経文の一部が刻まれており、「お経を書写して奉安し、礼拝供養する者は、過去の罪障が消滅する」など、計り知れない功徳を得ることが説かれている。
功徳を得ることを願う人々の祈りの声がきこえる。
金龍山 浅草寺」
(説明板)
「山東京伝机塚の碑 台東区浅草二丁目三番一号 浅草寺内
山東京伝(一七六一〜一八一六)は、浅草や吉原を題材とする戯作を多く著わし、北尾誠演の画号で浮世絵もよくした人物。
この碑は,京伝の弟京山が文化十四年(一八一七)に亡兄を偲んで建立。表面には晩年の京伝撰「書案之紀」を刻む。書案とは机のことで「九歳の時に寺子屋に入った際、親の買ってくれた机を生涯愛用し、この机で百部を越える戯作を書いた。しかし五○年近くも使ったので、ゆがみ、老い込んださまは哀れである」という意味の文と、「耳もそこね あし(足)もくしけて もろともに 世にふる机なれも老いたり」の歌が記されている。また、裏面には、京伝と親交のあった戯作者太田南畝の撰による京伝の経歴を刻む。
京伝の生涯や人間性を伝える貴重な資料で、平成二年に台東区有形文化財として登載。
平成六年三月 台東区教育委員会」
○菅沼定敬の歌碑
嘉永3(1850)年の建立です。
「敷島のみちにはせきもあらなくになとてこころのとほらざる覧」
○竹本津賀太夫の碑
文政10(1827)年の建立です。建台石に百数十名の門下の名が刻まれています。
「大江戸のつよきひいきの力にぞ かゝる千曳のいしぶみはたつ」
医療法人ではなく社会福祉法人として病院を経営しているところに、歴史が窺えます。