○ 伝法院通り(東)
○ 河竹黙阿弥翁住居跡之碑
○ 伝法院通り(西)
○ 伝法院
○ 鎮護堂
○白浪五人男
河竹黙阿弥の代表作「青砥稿花紅彩画」(通称「白浪五人男」)に登場する五人男が伝法院通りにいます。
(説明板)
「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)
河竹黙阿弥の代表作で通称『白浪五人男』は鼠小僧と並ぶほど有名な盗賊達を描いた歌舞伎の演目として親しまれてきました。主役は五人の大盗賊。
用心棒となってこの通りを守っています。
注意深く探して下さい。
日本駄衛門(にっぽんだえもん)
弁天小僧菊之助(べんてんこぞうきくのすけ)
南郷力丸(なんごうりきまる)
赤星十三郎(あかぼしじゅうざぶろう)
忠信利平(ただのぶりへい)
河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)
江戸時代から明治にかけて大活躍した歌舞伎作家。
黙阿弥は当時、この通りの一角に住んで参加活動を行っていました。生涯に約三百六十編もの作品を残し、現在でも多くの作品が演じられております。
主な代表作は「三人吉三廓初買」「極付番隨長兵衛」一心太助でお馴染の「芽出柳翆緑松前」など。」
【日本駄右衛門】
背中に車止めの「立札」、右手に白浪五人男の案内板を持っています。
「日本駄右衛門
大泥棒で白浪五人男の頭領。百日髷と言われる伸びすぎた髪が特徴的。
お馴染みの名台詞
問われて名乗るもおこがましいが、産まれは遠州浜松在十四の年から親に放れ、身の生業も白浪の沖を越えたる夜働き盗みはすれども非道はせず、人に情けを掛川から金谷をかけて宿々で義賊と噂、高札に廻る配符の盥越し危ねぇその身の境界ももはや四十に人間の定めは僅か五十年六十余州に隠れのねぇ 賊徒の首領 日本駄右衛門」
【弁天小僧菊之助】 台東区浅草2-2-4
大正ロマン館の1階のひさしの上に座っています。
「弁天小僧菊之助
弁天小僧は女装して呉服屋を騙そうとする若き美男子。
お馴染みの名台詞
さてその次は江ノ島の岩本院の児あがり、ふだん着慣れし振袖から髷も島田に由比ヶ浜 打ち込む浪にしっぽりと女に化けた美人局、油断のならぬ小娘も小袋坂に身の破れ、悪い浮名も竜の口 土の牢へも二度三度、だんだん越える鳥居数、八幡様の氏子にて鎌倉無宿と肩書きも島に育ってその名さえ、弁天小僧菊之助」
【赤星十三郎】 台東区浅草1-36-7
ラーメン与ろゐ屋の屋根の上に座っています。
「赤星十三郎
元々は武家のお小姓。その佇まいは両性的で年若く美しい顔立ち。
お馴染みの名台詞
またその次に列なるは 以前は武家の中小姓、故主のために切取りも、鈍き刀の腰越や砥上ヶ原に身の錆を磨ぎなおしても抜き兼る、盗み心の深翠り、柳の都谷七郷、花水橋の切取から、今年若と名も高く、忍ぶ姿も人の目に月影ヶ谷神輿ヶ嶽、今日ぞ命の明け方に消ゆる間近き星月夜、その名も赤星十三郎」
【忠信利平】 台東区浅草1-35-6
もつ焼き千代乃家の壁に這いつくばっています。
「忠信利平
日本駄衛門も認める、元浪人で剣の達人。腕節も強く、いぶし銀の魅力を持った男。
お馴染みの名台詞
続いて次に控えしは月の武蔵の江戸育ち、幼児の折から手癖が悪く、抜参りからぐれだして旅を稼ぎに西国をまわって首尾も吉野山、まぶな仕事も大峰に足をとめたる奈良の京、碁打と言って寺々や豪家へ入込み盗んだる金が御嶽の罪科は蹴抜の塔の二重三重、重なる悪事に高飛びなし、後を隠せし、判官の、御名前騙りの忠信利平」
【南郷力丸】 台東区浅草2-1-1
中村屋本店のバルコニーにいます。
「南郷力丸
漁師町育ちの元漁師。野性的で弁天小僧と共に呉服屋を騙そうとする。
お馴染みの名台詞
さてどんじりに控えしは、潮風荒き小ゆるぎの磯 馴の松の曲りなり、人となったる浜育ち、仁義の道も白川の夜船へ乗り込む船盗人、波にきらめく稲妻の白刃に脅す人殺し背負って立たれぬ罪科は、その身に重き虎ヶ石、悪事千里というからはどうで終いは木の空と覚悟はかねて鴫立沢、しかし哀れは身に知らぬ念仏嫌えな南郷力丸」
【青砥左衛門藤綱】 台東区浅草1-35
(説明板)
「青砥左衛門藤綱(あおとざえもんふじつな)
白浪五人男を捕らえようとする人物が藤綱であり、大岡越前と並び名奉行として広く世間に知られていました。その藤綱の逸話が物語に登場します。
滑川に十文銭を落としてしまい、家来に命じて五十文で松明を買い探させました。それを知るとある者は『十文を探す為に五十文も使っては、大損ではないか』と笑いました。しかし藤綱は『十文はわずかだが、そのままにすれば天下の貨幣を永久に失ってしまう。五十文は私にとって損になるが、その五十文は他の誰かを益するだろう。
合わせて六十文は一文も残さず天下の財になっている』と説きました。この物語では金銭に関わる多くの悪事が行われますが、自分の利益の為だけにお金を使うのではなく、世の中の為にお金を使うという教えは今の時代も大切な事ではないでしょうか。
その藤綱がついに日本駄衛門を追いつめます。
日本駄衛門は潔く縄に掛かろうとしますが、藤綱は温情から再会を約束して逃します。白浪五人男とはそんな人情溢れる物語です。」
【河竹黙阿弥】
「河竹黙阿弥
江戸時代幕末から明治にかけて大活躍した歌舞伎作家。
黙阿弥は当時、この通りの一角に住んで作家活動を行っていました。
主に白波物(盗賊が主役の歌舞伎)を中心に生世話物(江戸の町人社会を描いた歌舞伎)を徳院とした人気作家です。
生涯に約三百六十編もの作品を残し、現在でも多くの作品が演じられており、青砥稿花紅彩画は代表作の一つで、青砥稿花紅彩画は代表作の一つで、白浪五人男の愛称で有名な作品です。」
<狛犬>
狛犬がいるので、小祠があるかと思いきや、「日本酒文化専門店あなぐら」(台東区浅草2-2-1)です。
仲見世会館の前右手に「河竹黙阿弥翁住居跡之碑」と、河竹黙阿弥の曾孫にあたる河竹登志夫による説明板があります。
浅草神社の境内には「河竹黙阿弥翁顕彰碑」が建てられています。
「河竹黙阿弥翁住居跡之碑
前正智院住職 守山良順書」
(説明板)
「黙阿弥と浅草
早稲田大学名誉教授
文学博士 河竹登志夫
歌舞伎作者河竹黙阿弥(一八一六〜一八九三)は文化十三年江戸日本橋の商家に生まれ、かぞえてニ十歳のときに五世鶴屋南北に入門、七十八歳で没するまでに三百六十篇にのぼる作品を残した。
天保の改革による江戸三座の猿若町移転に伴ってこの地に移り住んだのは、弘化年間三十歳ごろから明治二十年、本所南二葉町いまの墨田区亀沢に隠棲するまでの約四十年間である。宇都谷峠・十六夜清心・三人吉三・弁天小僧・村井長庵・御所の五郎蔵・髪結新三・河内山と直侍・島ちどり・魚屋宗五郎・土蜘・船弁慶・紅葉狩などの代表作をはじめ、ほとんど全作品がここで書かれたのであった。
坪内逍遥は黙阿弥を「真に江戸演劇の大問屋なり・・・一身にして数世紀なり」と評し「日本の沙翁」とも讃えたが、馬道町二丁目十二番地といったこの地が浅草寺子院正智院の境内だったので、江戸、東京の市民からは「地内の師匠」と親しまれたという。
平成二年七月吉日 浅草観光連盟」
「河竹黙阿弥肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
文化13年2月3日〜明治26年1月22日(1816年3月1日〜1893年1月22日)
鳩の形の組み合わせで「伝」の文字になっています。
<鼠小僧の像> 台東区浅草1-39-11
平成27(2015)年4月に隅田公園の「平成中村座発祥の地記念碑」(こちらで記載)と、伝法院通りの「鼠小僧の像」が除幕されています。
<ストリートファニチャー>
火の見梯子、半鐘桶などストリートファニチャーが設置されています。
<地口行灯>
13本の街路灯(25面)に地口行灯が飾られています。
(説明文)
「地口行灯(じぐちあんどん)
地口とは江戸時代に流行した言葉あそびで、駄洒落(だじゃれ)の一種です。これを絵画化したのが「地口絵」で、行灯に仕立てたのが「地口行灯」です。伝法院通りの鎮護堂(おたぬきさん)では古くからご縁日の時には数多く奉納され、賑やかに飾られていたことに由来し、現在はこの通りに飾るようになりました。
とんでゆに入る夏のぶし(飛んで火に入る夏の虫)」
東から西に見て行きます。
「大かめ もちだ」(大金持ちだ)
「はんぺん もらって たばこにしょ」(三遍回って煙草にしょ)
「ねた もの ふうふ」(にたもの夫婦)
「おやおや うず ばっかり」(おやおやうそばかり)
「わらう顔には ふぐ きたる」(笑う門には福来る)
「あとの 号外 先に たたず」(後の後悔先にたたず)
「とんで ゆに入る 夏の ぶし」(飛んで火に入る夏の虫)
「唐人に つりがね」(提灯につり鐘)
「板きり むすめ」(舌切り雀)
「ひまの 大工に 五十両」(縞の財布に五十両)
「井戸の 渕には 戸は 立られぬ」(人の口には戸は立てられぬ)
「たらいに 見かわす かおと かお」(互いに見交わす顔と顔)
「玉から 小僧が ないて 出た」(山から小僧が泣いて来た)
「ほうずきの こうべに かにやどる」(正直の頭に神宿る)
「はだかで 田つぽれ」(裸でかっぽれ)
「大かぶ 小かぶ 山から 小僧が ぬいてきた」(大寒小寒山から小僧が泣いて来た)
「恵びす だいこ くう(恵比寿大黒)
「はねが はたきの 世の中じゃ」(金がかたきの世の中)
「目刺は 物を おこらざりけり」(昔はものをおもわざりけり)
「おかめ はちまき」(傍目八目)
「狸へ かえす 観音経」(魂返す、反魂香)
「はけに つづみ」(竹に雀)
「大竹 のみ」(大酒飲み)
「本より 上うご」(論より証拠)
「えんま したの 力持」(縁の下の力持)
一般公開はしていません。
<鎮護堂>
(説明板)
「鎮護堂 台東区浅草二丁目三番一号 浅草寺
鎮護堂は「おたぬきさま」の名で親しまれ、防火、盗難除、商売繁昌の守護神として知られている。
明治五年(一八七二)、浅草寺境内に住みついた狸の乱行を鎮めるため、浅草寺の用人であった大橋亘が浅草寺貫首唯我韶舜と相談の上、自身の邸内に祀ったことがはじまりと伝える。数度の移転を経て、同十六年伝法院内の当地に再建した。
現在の入母屋造の本殿は、大正二年に再建されたものである。
祭礼は、毎年三月十七・十八日に行われている。
また境内には昭和三十八年に建てられた幇間塚がある。幇間のことを「たぬき」と呼んだことから、この地に建てられたもので、碑には幇間の由来と久保田万太郎の「またの名のたぬきづか春ふかきかな」の句が刻まれ、裏面には幇間一同の名が刻まれている。
平成十八年三月 台東区教育委員会」
<幇間塚碑>
(説明板)
「幇間塚碑
「幇」は、たすける意。幇間とは、客の宴席に侍し、座を取り持つなどして遊興を助ける者。たいこもち、男芸者のこと。
幇間有志によって、幇間物故供養のため、昭和三十八年に建立された。
碑には、浅草生れで、大正・昭和期の小説家・劇作家・俳人、久保田万太郎氏の俳句がある。
「またの名の たぬきづか 春ふかきかな」
金龍山 浅草寺」