Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 ○ 泉岳寺


○泉岳寺 港区高輪2-11-1 HP

 慶長17(1612)年、徳川家康の命により創建。
 総泉寺、青松寺と並び「曹洞宗江戸三ヶ寺」と称されました。
 寛永18(1641)年の大火で焼失したため、現在地に替地を与えられ、外桜田から移転しました。
 藩主浅野長矩及び四十七士の墓があることで有名となりました。川柳「それまでは ただの寺なり 泉岳寺」

「江戸名所図会 泉岳寺」
 東海道に面して、現在はない「総口」が見えます。
 境内左手に「四十七士墓」とあり、墓への登り口右手に井戸も見えます。

    

「江戸切絵図」
 泉岳寺には「四十七人ハカアリ」と記され、名所となったことがうかがえます。

  

「泉岳寺開帳詣」(豊国)
 泉岳寺の開帳では、浪士の遺品も開帳していました。
 左手の開帳立札の後ろには石垣が見えるので、高輪大木戸でしょう。

   

「東都高輪泉岳寺開帳参里の図」(豊国)

  

「東都高輪風景」(五雲亭貞秀)
 「泉岳寺」「義士の墓」が見えます。

   

<中門> 港区文化財

 天保7(1836)年に再建の「中門」です。
 扁額「萬松山」

     

<石仏>

 石仏が三基並んでいます。

   

<石橋>

   

<参拝案内>

    

<大石内蔵助良雄銅像>

   

(説明板)
「大石内蔵助良雄銅像
 この銅像は、浪曲の宗家・桃中軒雲右衛門の発願により鋳造されたもので、所有が転々としていましたが、泉岳寺に寄進され、大正十年十二月十四日に除幕したものです。
 内蔵助が、当時の風俗である元禄羽織を身につけ、連判状を手にして東の空(江戸方向)をじっとにらんでいる姿を表したものです。」

  

<山門> 港区文化財

 天保3(1832)年に再建の「山門」です。

    

 「港区の文化財 泉岳寺山門」
   

 山門裏
   

<萬松山泉岳寺の縁起>

「萬松山泉岳寺の縁起
 当萬松山泉岳寺は、慶長十七年(一六一二年)、徳川家康が幼年、身を寄せた今川義元の菩提を弔うため、江戸城に近接する外桜田の地に創建し、門庵宗関和尚(一五四六〜一六二一)を迎えて開山となした。宗関和尚は永平寺の道元禅師によって開かれた曹洞宗の第四代瑩山禅師開創の総持寺の門派である太平山大中寺(栃木県)の十一世建室宗寅和尚(義元の実弟)の高弟であり、今川義元の孫と云われる人物で、度々登城を請われ法問を聴取されたと伝えられている。当寺の萬松山は松平の松より、「松萬代に栄ゆる」の意から、寺号泉岳寺は、徳川に因み、「源の泉、海岳に溢るる」の意からつけられたと旧梵鐘の銘に記されている。
 将軍によって建立された当寺も、寛永十八年(一六四一)の大火によって伽藍が焼失、三代将軍家光(一六○四〜一六五一)の命により現在の高輪の地に移転再建された(一説に移転は正保年間〈一六四四〜一六四八〉とも)。この移転に際しては、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名が尽力して完成し、その因縁により以後この五大名が共に檀越となり外護の任に当った。
 江戸時代当寺は曹洞宗の江戸三ヶ寺(青松寺・総泉寺と泉岳寺)の一つとして、大僧録たる関三刹(埼玉県龍穏寺・千葉県総寧寺・栃木県大中寺)の下、特に本寺大中寺の下で触頭として曹洞宗の行政面の一翼を担った。
 また、吉祥寺旃檀林・青松寺獅子窟とならぶ江戸三学寮の一つとして重きをなし、宗内外の碩学によって仏典・祖録・漢籍等が講じられ、曹洞宗僧侶の養成に大いに寄与した。山門から中門の両側には出身地別の九棟の寮舎が並び、常時二百名程の学僧が修学していたという。
 また、赤穂藩主浅野家の菩提寺であったことから元禄十五年の義挙(一七○二年十二月十四日)の後は、赤穂四十七義士の墓所としても知られ、討入り約五十年後より上演された歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の興行が盛んになるに伴って一層多くの参詣者が訪れるようになった。
 現存する山門は天保年間に当寺三十四世大道貞均和尚によって建立され、二階には釈迦三尊及び十六羅漢が安置され、一階中央天井には我が国彫金の名匠、関義則の龍蟠が嵌め込まれている。
 明治初期には廃仏毀釈の余波を受けて、やや荒廃を余儀なくされたが、当寺四○世圓頓霊巌和尚の地道な努力と創意工夫とによって本堂、庫院を恢興し、また煉瓦造りの義士宝物館を創設し、既存の石巒師資制作の義士像を展示する木像堂と共にこれらを公開することによって広く衆望を集めて寺運の再興を果し、次代の四十一世普天霊明和尚がこれを継承して関東大震災に崩壊せる義士宝物館を再建し、書院を新築して、寺域の拡張・整備に努め、明治・大正・昭和に跨る当山の隆昌期が築かれた。
 然るに先の第二次世界大戦の戦渦に遭遇し、山門・義士館(旧義士館=現講堂)以外の諸堂が焼失し、歴代の功業は大いに削がれてしまった。しかし次の四十二世祖天凖爾和尚は戦後の苦境の中に諸堂の再興を発願し、遂に昭和二十八年(一九五三)に本堂の再建を果し、以後これが継承されて現在に至る伽藍・境内等の整備が戦後復興の一環として続けられている。先年義士討入り三百年を記念し、浄財を募って浅野家の塋域(史蹟)を整備し、新たに赤穂義士記念館(平成十三年開館)を建設して、寺宝と共に大石良雄の書状をはじめとする赤穂義士関係の資料を展示して、赤穂義士の已むに已まれぬ心情を伝承することに資している。
 平成十六年、江戸期の学寮の伝統と戦前に宗門の宗義自覚の発露であった道元禅師鑚仰会の活動等を再興すべく、泉岳寺学寮講座を開設し、漢学・仏教学・宗学の各講座を毎週開講し、また参禅会を公開して道俗の好学の士の渇望に応えている。」

  

(説明板)
「萬松山 泉岳寺
 泉岳寺は曹洞宗の寺院です。
曹洞宗のご本山は二つあり、一つは道元禅師が開かれた福井県の永平寺、もう1つは横浜鶴見の総持寺です。
 道元禅師の主著は仏教の神髄を表した「正法眼蔵」という九十五巻に渡る書物です。
 さて、泉岳寺は慶長十七年(一六一二年)に「門庵宗関(もんなんそうかん)和尚(今川義元の孫)を拝請して徳川家康が外桜田に創立した寺院です(現在のホテルオークラの近く)。
 しかしながら寛永十八年(一六四一年)の寛永の大火によって焼失。そして現在の高輪の地に移転してきました。時の将軍家光が高輪泉岳寺の復興がままならない様子を見て、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名に命じ、高輪に移転した泉岳寺は出来上がったのです。
浅野家と泉岳寺の付き合いはこの時以来のものです。
 一般的には赤穂義士のお墓があることで有名ですが、創建時より七堂伽藍を完備して、諸国の僧侶二百名近くが参学する叢林として、また曹洞宗江戸三ヶ寺ならびに三学寮の一つとして名を馳せていました。
 その家風は引き継がれており、人数は少ないものの、大学で仏教を学びつつ泉岳寺で修行を勤めるという若い修行僧が、現在もいます。」

  

<横山君墓碣銘>

 明治十八年十月(1885)の建碑。

  

<殉難戦死之碑>

 西南戦争戦死者の追悼碑です。
 明治11(1878)年に建立された原碑が倒壊したため大正12(192)年に再建されています。

    

<鐘楼>

   

<澤木興道老師像>

    

<本堂>

     

【赤穂義士墓所】

<史蹟 赤穂義士墓所入口>

    

<主税の梅>

(説明板)
「主税の梅
 大石主税が切腹した松平壱岐守三田屋敷に植えられていた梅とつたえられています。」

   

<水琴窟>

    

<瑶池梅>

(説明板)
「瑶池梅
 義士の墓守りをしていた堀部妙海法尼が瑶泉院から賜った鉢植えの梅を移植したものと伝えられています。」

   

<血染めの梅/血染めの石>

(説明板)
「血染めの梅
 血染めの石
 浅野内匠頭が、田村右京大夫邸の庭先で切腹した際、その血がかかったと伝えられている梅と石です。」

    

<首洗い井戸>

     

(説明板)
「首洗い井戸
 義士が本懐成就後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したところから「首洗い井戸」と呼ばれています。」

  

 「川上音二郎之碑」
  

 「新劇場設立紀念之碑」(明治29年銘)
   

<義商 天野屋利兵衛浮図>

 天野屋利兵衛は大阪の商人で、「忠臣蔵』」では討ち入りのための武器調達を行った支援者として描かれています。

  

<筆供養之碑>

 林龍峡の揮毫による昭和57(1982)年の建碑です。
 後方に「大般若経供養塔」があります。

  

<高島嘉右衛門の墓碑>

  高島易断創始者「高島嘉右衛門」の石碑です。

   

<義士墓入口の門> 港区文化財

    

(標柱)
「港区登録有形文化財(建造物)
 浅野長矩及び赤穂義士墓所門
 切妻造、本瓦葺、一間一戸棟門で、もとは赤穂藩浅野家の鉄砲州上屋敷(現中央区)の裏門として建築されたものです。大石良雄が屋敷を訪れる際によく出入りした門といわれ、明治初年に取り払われる際に、この場所に移築されました。大名屋敷の江戸藩邸門の様式を残す遺構として貴重です。
 平成十一年二月十一日 港区文化財総合目録登録  港区教育委員会」

   

<史蹟 浅野長矩墓及赤穂義士墓> 国史跡

(正面)
 「史蹟 浅野長矩墓及赤穂義士墓」
(右側面)
 「史蹟名勝天然紀念物保存法ニ依リ
  大正十一年十一月 内務大臣指定」

   

「東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖」(東京市公園課 大正11年)

            泉岳寺                赤穗義士墓
   

<赤穂義士記念館/義士木像館>

   


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