Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 ○ 正受院


○正受院 新宿区新宿2-15-20

 幕末に流行した奪衣婆尊が祀られています。「江戸東京四十四閻魔」の第四十三番です。

    

<奪衣婆尊> 新宿区文化財

 頭巾状に綿を被っているため通称「綿のおばば」として、嘉永2(1849)年に参詣人が群集し、大いにはやりました。
 あまりにはやりすぎたため寺社奉行の取締りが行われ、それ以後は正月と7月の16日しか参詣が許されなくなりました。

     

(説明板)
「新宿区指定有形民俗文化財
 正受院の奪衣婆像
   所在地 新宿区新宿二丁目一五番二○号
   指定年月日 昭和五十九年十一月二日
 木造で像高七○センチ。頭から肩にかけて頭巾状の綿を被っているため、「棉のおばば」とも呼ばれる。咳止めや子どもの虫封じに霊験があるといわれ、綿は咳止めの御礼参りに奉納したと伝えられる。
 同時代の事件や、噂話を記した『藤岡屋日記』によれば、正受院へ押し入った泥棒が、奪衣婆の霊力により捕えられた話や、 錦に引火した灯明の火を、奪衣婆自らもみ消したなどの逸話が評判を呼び、嘉永二年(一八四九)春にかけて江戸中から参詣人が集まったという。
 本像は小野篁の作であるとの伝承があり、また田安家所蔵のものを同家と縁のある正受院に奉納したとも伝えられる。構造や作風から江戸時代初期の作と考えられ、像低のはめ込み版から、元禄年間(一六八八〜一七〇四)には正受院に安置されていたことが分かる。
  平成三十一年三月二十九日  新宿区教育委員会」

  

「奪衣婆と翁稲荷の首引」(一勇斎国芳 嘉永2(1849)年)

 内藤新宿の正受院の奪衣婆と日本橋の翁稲荷大明神が首引きをしている場面が描かれています。
 翁稲荷には狐、奪衣婆には三途の川の渡し馬が、それぞれ応援しています。
 (※翁稲荷は現在は幸徳稲荷神社に合祀されています。こちらで記載)

  

<百度箱>

 嘉永2年(1849)造立の百度箱です。百度石以外で初めて見ました。
 後ろにあった針塚と小見外次郎翁胸像は令和元(2019)年に撤去、正受院での針供養は平成30(2018)年で終了したようです。

  

<梵鐘> 新宿区文化財

(説明板)
「新宿区登録有形文化財 工芸品
 梵鐘
   所在地 新宿新宿二丁目十五番二○号 正受院
   登録年月日 平成十四年二月一日
 宝永八年(一七一一)、江戸神田の鋳物師河合兵部藤原周徳により鋳造された銅造の梵鐘。
 総高一三五センチメートル、口径七二・八センチメートル。竜頭は中央に宝珠を持つ両頭式、乳(突起)は四区に合計一○八個を配し、撞座は二個設けられている。
 池の間には四区全体に銘文が刻まれている。それによるとこの鐘は、正受院第五世住職の覚誉上人が発願したものを、万人講の助力をえて第八世住職の仰誉が完成させたものであることがわかる。
 なおこの鐘は、太平洋戦争に際し、昭和十七年に金属供出されたが、戦後アメリカのアイオワ州立大学内海軍特別訓練隊にあるのが発見され、昭和三七年十二月に正受院に返還されたという数奇な来歴をもっており、「平和の鐘」と呼ばれる。
 江戸時代の梵鐘は、このような金属供出により現存数が少なく、価値が高い。
  平成十五年三月  新宿区教育委員会」

   

<無縁地蔵尊>

   

<林學士堀本君之墓>

 碑文には「林學士堀本常太郎君墓碑」とあります。
 明治31(1898)年9月の建立です。

   

<萬霊塔>

  

<本堂>

   

<松平容保の墓所跡/松平容保終焉の地>

 旧会津藩主松平容保は、明治維新後は、明治13(1880)年に日光東照宮宮司となっています(東照宮に参拝に来た徳川慶喜と会っています)。
 晩年を小石川区小日向第六天町8番地(現:文京区小日向1-2-3辺)の松平邸で過ごしました。
 明治26(1893)年12月5日に亡くなり、葬儀は神式で行われ、3,200余名の会葬者を数え、先に葬られていた照姫と同じく正受院に葬られました。

 病床にあった容保に英照皇太后(亡き孝明天皇の皇后)より牛乳が遣わされ、
 医師がコーヒーを加え「服用」したというエピソードがあります(コーヒー牛乳って薬だったの?)。

 容保死後、第六天町の松平邸には、会津会事務局が置かれました。
 会津からの修学旅行生が訪れることもたびたびありました。会津関係者の拠点となったようです。
 (以上「文京ふるさと歴史館だより」(平成19年5月1日)を参照し補いました。)

 戊辰50周年の大正6(1917)年6月9日に、正受院の会津松平家関係埋葬者は会津院内御廟に改葬されています。
 容保の改葬に伴い先に葬られていた照姫も改葬されています。
 正受院鐘楼の後ろが松平家の墓所跡です。

 松平邸から直線距離にして100mほど東の同じく第六天町に、徳川慶喜は明治34(1901)年12月から晩年を過ごしています。
 二人が過ごした時期は重なりませんが、同じ第六天町でそれぞれ晩年を過ごしました。
 (※「徳川慶喜終焉の地」については、こちらで記載

「第六天町(昭和41(1966)年までの町名)に見る「松平容保終焉の地」と「徳川慶喜終焉の地」

  

「松平容保肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
  天保6年12月29日〜明治26年12月5日(1836年2月15日〜1893年12月5日)

  


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