○ 青松寺
○ 空中回廊(遊歩道)
○ 芝青松の杜(含海山)
○ 清岸院/考寿院
文明8(1476)年、貝塚(麹町)に太田道灌が開基し、慶長5(1600)年に現在地に移りました。
曹洞宗江戸三ヶ寺(青松寺、泉岳寺、総泉寺)の一つです。
森ビルによる「愛宕地区再開発」により、平成13(2001)年に青松寺は再整備されました。
奈良県マスコットキャラクター「せんとくん」の作者である彫刻家・籔内佐斗司氏の作品が数多く配されています。
青松寺の裏山は、「愛宕山」の南に連なる「含海山」といいます。
「江戸名所図会 青松寺」
愛宕山に連なる裏山は「含海山」とのこと。
本文「当寺の後の山を含海山と号く 眺望愛宕山に等しく美景の地なり」
「江戸切絵図」
広い寺域の「青松寺」が見えます。「清岸院」も見えます。
また、「切通シ坂」には「時ノ鐘」が見えます。
<AREA MAP/境内マップ>
愛宕山にNHK放送博物館、含海山に望楼があります。
<仏足石>
愛宕通りに面して「仏足石」があります。
<聖観音像>
仏足石からの脇参道を上がると「聖観音像」が立っています。
<山門>
屋根の四隅には、彫刻家・籔内佐斗司氏の作品「隅龍」が置かれています。
木彫の「四天王像」(持国天、広目天、増長天、多聞天)が配され、それぞれ邪鬼を踏みつけています。
彫刻家・籔内佐斗司氏の作品です。
<鐘楼>
鐘楼堂の鐘は昭和31(1956)年に鋳造されたものです。
<中雀門>
中雀門の手前には「石橋」が架かっています。これは桜川に架かっていたものを移築したようです。
中雀門の左手に「禁葷酒」。
中雀門の裏
<座禅堂>
<観音聖堂>
<天水桶>
天水桶は川口の鋳物です。
「昭和三十五年五月吉日
製作人 川口市 山崎甚五兵衛」
<本堂>
左右に仁王を配置。
<梵鐘>
本堂脇の櫓に梵鐘がつるされています。
元禄年間(1688-1704)の鋳造で、戦時中に供出されましたが、戻ってきた鐘です。
<石碑>
<一銭地蔵>
趣旨に賛同する人々から小額の寄付を募り、昭和26(1951)年11月に建立。
<桜川を模した流れ>
境内には桜川を模した流れが創出されています。
<龍瀧>
流れは、一部が龍瀧の吐水口から噴き出しています。
彫刻家・籔内佐斗司氏の作品です。
<誕生童子・花祭りの童子>
彫刻家・籔内佐斗司氏の作品です。
中央に「誕生童子」、四方の花祭りの童子が乗る象の鼻から水の噴水。
愛宕山山頂から、空中回廊の遊歩道を通って、青松寺へ来ました。
途中に「故市来・吉住両君の記念碑」があります。
<故市来・吉住両君の記念碑>
インドネシアのスカルノ大統領が1958年に来日した際に、
インドネシア独立戦争に参加して戦死した市来龍夫、吉住留五郎両名の顕彰碑が建碑されました。
スカルノ大統領は、日本料理店「醍醐」で、両名が靖国神社に祀られていないことを聞き、
隣接する青松寺に、スカルノ大統領直筆の顕彰碑が建碑されました。
今でもインドネシアの大使が日本に赴任すると、顕彰碑に参られるとのことです。
(「青松寺のスカルノ大統領の石碑についての疑問に答えます。」)を参照しました。)
(碑文)
「故市来・吉住両君の記念碑
市来龍夫君と吉住留五郎君へ
獨立は一民族のものならず 全人類のものなり
一九三八年二月十五日 東京にて スカルノ」
※この下にインドネシア語の直筆文。碑陰に顕彰内容が記されています。
<精進料理 醍醐> 港区愛宕2-3-1
記念碑のすぐそばに「精進料理 醍醐」はあります。
鐘楼堂の脇の道を進みます。
<消災十体地蔵尊レリーフ/消災地蔵尊碑>
再開発前には、「消災十体地蔵尊」が立っていたようです。
<法輪大観音>
<奴地蔵(槍持勘助墓)> 港区文化財
痔の神様と呼ばれる奴地蔵(槍持勘助墓)は、立入禁止の墓地入口にありますが、
法輪大観音の裏手にも奴地蔵、港区説明標柱、石祠が配されています。
槍持勘助(芦田義勝)は、美作国(岡山県)津山藩松平越後守宣富の足軽でした。
越後守の槍は大変長く重かったので、倒さぬように持つための苦労が多く、
槍持勘助は、この難儀を後に残すまいと、槍の柄を一メートルほど切り落とし、その場で切腹しました。
墓は人の形に作られて、いつの間にか奴地蔵と呼ばれました。川柳「柄と腹を切って末世に残す槍」
(標柱)
「港区文化財 奴地蔵(槍持勘助墓)
勘助(本名芦田義勝)は、美作国(岡山県)津山藩松平越後守宣富の足軽でした。主人越後守の槍は大変長く、重かったので倒さぬように持つための苦労が多く、倒して打首になった者もいました。義侠心の強い槍持勘助は、身をもってこの難儀を後に残すまいと、槍の柄を一メートルほど切り落とし、その場で切腹しました。元禄十四年(一七○一)九月のことといいます。その後、松平家では再び切られるのを恐れて、槍の柄に鉄の筋金を入れたといいます。
墓は人の形に作られて、いつの間にか奴地蔵と呼ばれました。勘助が生前痔病で苦しんでいたので、下の病に効くといわれるようになり、願をかけるものが多くなりました。全治した者は、竹の筒に酒を入れてお礼に供えました。
平成五年三月二十三日 港区文化財総合目録登録 港区教育委員会」
<千里社稲荷>
三祠が並んでいます。
<智正庵>
千里社稲荷の手前の階段を上っていくと、「含海山」の頂上に至り、茶室「智正庵」があります。
<十二支摩尼車>
智正庵の庭には、十二支の「摩尼車」が並んでいます。くるくると回せます。
彫刻家の薮内左登志氏の作品で、3点ずつ4か所に分けて設置されています。
<望楼>
含海山の頂上に建っているのが「望楼」です。
望楼からの現在の視界は、木々とビルに遮られ眺望は望めません。
<石祠>
望楼の下に石祠があります。
含海山を西に降りて行くと「清岸院」があります。
青松寺と山号が同じです。
清岸院の隣に「考寿院」があります。
○参道
両寺へのエスカレーター参道です。
○そばよし神谷町店 港区虎ノ門3-22-11
参道下の交差点「芝学園下」の角にある、鰹節問屋直営「そばよし」神谷町店です。
本店はこちらで記載。