Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 ○ 成覚寺(投込寺)


○成覚寺(投込寺) 新宿区新宿2-15-18

 内藤新宿の遊女(飯盛女、子供ともいう)が亡くなると、成覚寺に葬られたことから、「投げ込み寺」とも呼ばれました。

    

<六地蔵>

    

<子供合埋碑> 新宿区文化財

 子供とは遊郭の抱主が遊女を呼ぶときの言葉で、
 投げ込まれた遊女を合葬し供養したもので、万延元(1860)年に楼主たちが建立しました。

    

(説明板)
「新宿区指定有形文化財 歴史資料
 子供合埋碑
   所在地 新宿区新宿二丁目十五番十八号
   指定年月日 昭和六十年八月二日 
 江戸時代内藤新宿にいた飯盛女(子供と呼ばれていた)達を弔うため、万延元年(一八六○)十一月に旅籠屋中で造立したもので、惣墓と呼ばれた共葬墓地の一角に建てられた墓じるしである。
 飯盛女の抱えは実質上の人身売買であり、抱えられる時の契約は年季奉公で年季中に死ぬと哀れにも投込むようにして惣墓に葬られたという。
 もともと墓地の最奥にあったが昭和三十一年の土地区画整理に際し現在地に移設された。
 宿場町として栄えた新宿を蔭で支えた女性達の存在と内藤新宿の歴史の一画を物語る貴重な歴史資料である。
  平成五年十一月  東京都新宿区教育委員会」

  

<白糸塚>

 見つけにくい白糸塚です。
 嘉永5(1852)年、二代目「坂東志うか」が、
 「鈴木主水と内藤新宿橋本屋の遊女白糸との情死」話に取材した芝居が大当たりし、
 その御礼として成覚寺に参詣した際に、白糸の供養として自作の句を刻銘した慰霊碑です。

 「白糸塚
   すえの世も結ぶえにしや糸柳
   嘉永子のとし 
   しら糸の供やう建し 二代目志うか」

   

<無縁塔>

   

<恋川春町の墓> 新宿区史跡

 正面に刻まれた3名の左に戒名「寂静院廓誉湛水居士」、俗名「倉橋寿正 源格」、没年「寛政己酉元年七月七日」が見えます。
 二基並んでいる墓石のうち右側です。

    

<恋川春町の辞世句>

 左側面に辞世の句が刻まれています。

 「生涯苦楽四十六年
  即今脱却浩然帰天
  我も万た身はなきものとおもひしが
  今ハのきハハさ比しかり鳧」

  

(説明板)
「新宿区指定史跡
 恋川春町の墓
   所在地 新宿区新宿二丁目十五番十八号
   指定年月日 昭和六十年七月五日 
 恋川春町(一七四四〜一七八九)は、江戸時代中期に活躍した浮世絵師・狂歌師・戯作者で本名を倉橋格俗称を寿平という。
 江戸小石川春日町に住んでいたところから恋川春町を号した。
 多くの書に挿絵などを描いていたが、安永四年(一七七五)自画自作の「金々先生栄花夢」を出版し、世相・人情の風刺を試み大歓迎を受け、多くの追随作を生み黄表紙と
いう新しいジャンルを開拓し、文学史上に大きな影響を及ぼした。
 墓石には正面に一族の者二人と並んで戒名、俗名、没年が記され更に左側面に春町の辞世の句が
  生涯苦楽四十六年
   即今脱却浩然帰天
    我も万た身はなきものとおもひしが
     今ハのきハハさ比しかり鳧
と記されている。

 新宿区指定有形文化財歴史資料
 旭地蔵
   指定年月日 昭和六十年八月二日
 三界万霊と刻まれた台座に露座し錫杖と宝珠を持つ石地蔵で、蓮座と反花の間に十八人の戒名が記されている。これらの人々は寛政十二年(一八○○)から文化十年(一八一四)の間に宿場内で不慮の死を遂げた人達で、そのうちの七組の男女はなさぬ仲を悲しんで心中した遊女と客達であると思われる。これらの人々を供養するため寛政十二年七月に宿場中が合力し、今の新宿御苑北側を流れていた玉川上水の北岸に建立した。
 別名夜泣地蔵とも呼ばれていたと伝えられる。
 明治十二年(一八七九)七月道路拡張に伴いここに移設された。
 宿場町新宿が生み出した悲しい男女の結末と新宿発展の一画を物語る貴重な歴史資料である。
  平成五年十一月  東京都新宿区教育委員会」

  

<旭地蔵> 新宿区文化財

 もとは旭町(現:新宿四丁目)の玉川上水の北岸にあったため旭地蔵と呼ばれます。寛政12(1800)年の造立です。
 蓮華座下の台石に18名の戒名が刻まれており、玉川上水への入水自殺者を供養する目的で建立されたものです。
 そのうち7組は男女一組になっており遊女と客の名であるといいます。
 明治12(1879)年7月に成覚寺に移され、旭地蔵の脇にはその際に建立された旭地蔵移転記念碑が建っています。

    

<旭地蔵移転記念碑>

 旭地蔵の脇に建ち、四面にわたり娼妓中・茶屋中・芸妓中など多数の寄進者が刻まれています。

   

<塚本明毅の墓碑> 新宿区史跡

 塚本明毅は、明治前期の改暦・地誌編纂等の事業を推進しました。
 墓所は昭和30年代に整理され、現在は塚本明毅の墓碑と塚本明毅妻の墓石のみが残っています。
 墓碑の篆額は、榎本武揚によるものです。

 「寧海塚本先生 寧海塚本先生墓碑銘」

 「塚本家之墓」
 「明治四十三年三月二十九日没 塚本明毅妻俗名満喜子
  明治四十四年三月十九日 明籌謹建」

     

(説明板)
「新宿区登録史跡
 塚本明毅の墓碑
   所在地 新宿区新宿二丁目十五番十八号
   指定年月日 平成十二年三月二日 
 幕末から明治前期にかけて、国民生活の近代化に貢献した塚本明毅(一八三三〜八五)の墓碑。墓所は昭和三十年代に整理され、現在は墓碑のみが残る。
 明毅は、江戸下谷に生まれた。幕臣として幕府海軍で重きをなし、沼津兵学校教頭をつとめた。維新後は明治政府に出仕し、兵学大教授などをつとめ、その後は官吏として地誌の編纂するい『皇国地誌』など地誌の編纂にあたり『日本地誌提要』などをまとめた。また、太陽暦への改暦を建白し。明治五年の改暦(五年十二月三日をもって明治六年一月一日とした)にあたっては、詔書の準備など手続きを遂行した。
 碑は高さ一九八センチメートル、幅九五センチメートル。明毅没後十年を経た明治二十八年(一八九五)十月に建立されたもので、篆額を旧幕臣で農商務相の榎本武揚、撰文を儒学者・漢学者の川田剛、書を同じく田辺太一が担当するなど、明治を代表する顕官・学者が携わり、文化史的価値が高い。
  平成三十年三月  新宿区教育委員会」

   

<子育地蔵像>

 膝の上に子どもをのせた地蔵菩薩坐像で、元治元(1864)年の建立です。
 台座側面に建立の経緯が刻まれており、この地蔵は同年流行った疱瘡(天然痘)で死亡した子どもたちを供養するため造られたといいます。
 (破損激しく、「温故知しん!じゅく散歩」を参照しました。)

   

<本堂>

   


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