○ 西福寺
○ 地蔵道標(六阿弥陀一番目道)
江戸の人々は春秋のお彼岸に六阿弥陀詣を盛んに行いました。
西福寺(さいふくじ)は六阿弥陀第一番の寺として知られています。
当初の名称は、長福寺でしたが、享保初めに西福寺と改称しています。
「江戸名所図会 西福寺 六阿弥陀第壹番 梶原塚」
挿絵に「六阿弥陀かけてなくらむほととぎす 其角」とあります。
参道に「仁王門」、上には「豊しま川」、下には「しゃくじ川下流」とあります。
「江戸切絵図」
豊嶋村に「六アミタ一番西福寺」があり、「豊島村渡場」が見えます。
<山門/身代地蔵菩薩>
<地蔵>
山門入ってすぐ左手に地蔵と「祈帰り道も交通安全」
<お馬塚>
山門入ってすぐ右手に「お馬塚」があります。
「円顕妙楽信女霊位」とあります。
(碑文)
「お馬塚由来記
土佐の高知の播磨屋橋で
坊さんかんざし買うを見た
全国的に知られる民謡よさこい節は、今から百二十年前の安政元年四国八十八ヶ所第三十一番の札所高知所在の五台山竹林寺の僧で三十六才になった純信と近所に住む鋳かけ屋の娘で十六才になったお馬との年齢差を越えた恋愛事件に端を発し、当時の土佐藩の若侍達が岡焼き半分も手伝って色々な詞を作り面白おかしく歌い出したのが流行の始りだと言われている。
その後お馬は明治十八年の夏高知を離れて上京し、当山近くの豊島二五七七番地、現在の北区豊島二丁目十番のあたりに移り住んだが、明治三十六年十二月十五日六十六才の波乱に富んだ生涯を閉じた。
今日までお馬の詳しい消息は不明のままであったが、先年当山墓地内の寺崎家の墓に合祀されていることが当過去帳によって確認され、一躍世の脚光を浴びるに至った。悲恋に泣き苦しみに耐えながら数奇な運命を辿ったお馬さんの菩提を弔うため、新たに一基を建立してお馬塚と銘し、佛縁深い参詣者の便に供するものである。
昭和四十七年十二月十五日
発願主 当山住職 小笠原賢譽 敬白」
<地蔵菩薩>
参道右手の地蔵菩薩です。
<六地蔵>
参道右手、仁王門手前に六地蔵がおられます。
<六士銘記>
六地蔵の隣に彰義隊士6人の供養碑「六士銘記」が建っています。
<石塔>
参道左手、仁王門手前にも石塔が並んでいます。「奉石橋」があります。
<仁王門>
正面に金剛力士像、背面には風神雷神像がおられます。
総じて色彩艶やかな仁王門です。
表の柱を巻いた龍は、天井裏を通って、裏の柱の上から玉を咥えて顔を出しています。
<弘法大師修行像>
<彩帆観音(さいぱんかんのん)>
<平秩東作狂歌碑>
平秩東作(へづつとうさく)は、江戸時代後期の戯作者、狂歌師です。
「いかばかり かすみのころも おほきくて ふじの山をも袖にいれけむ」
<客殿>
<中門>
標石「関東六阿弥陀元木第一番霊場」と「延命地蔵座像」です。
長福寺(西福寺)は冠称として元木あるいは本木を使用しており、こちらの標石にも用いられています。
これは木の元、本を意味していました。
性翁寺は、余りの木の根を意味して木余りまたは根元を冠称としていました。
しかし「足立郡本木」の地名と間違いされることもありました。
<本尊阿弥陀如来露座大仏>
行基作阿弥陀如来は戦災で焼失、昭和58(1983)年、阿弥陀如来露座大仏が再建されています。
<五重石塔/板碑/地蔵菩薩>
「五重石塔」と、その奥に二基の「板碑」があります。地蔵菩薩があります。
<岩清水六阿弥陀>
江戸六阿弥陀の札所の阿弥陀如来が座しています。
壱番目 当本山
(寛文12年銘の逆修供養塔、願主の六百日参成就とあります。)
弐番目 沼田 惠明寺
参番目 西ヶ原 無量寺
四番目 田端 與樂寺
五番目 上野 常楽院
六番目 亀戸 常光寺
<本堂>
<庚申塔>
墓所入口に寛文11(1671)年7月銘の笠付庚申塔があります。
正面に青面金剛像、三猿が正面と右左面に一猿ずつ刻まれています。
<納骨塔>
墓地の納骨塔に庚申塔が混じっています。
・青面金剛庚申塔
左側面の庚申塔です。左に「享保五庚子年」とあります。
三猿の下に「武州豊嶋郡 同行九人 豊嶋村」と刻まれています。
・地蔵菩薩庚申塔
右側面の庚申塔です。
地蔵菩薩ですが、右に「奉供養庚申待二世安樂修」とあります。
紀年は欠けて読めない部分があり「元□□□□年九月」とあります。
福性寺参道前の延命招福地蔵尊です。脇に六阿弥陀道の道標を兼ねた地蔵尊があります。
<延命招福地蔵尊>
<地蔵道標(六阿弥陀一番目道)>
明和7(1770)年銘の道標を兼ねた地蔵尊です。
この場所は三番無量寺と一番西福寺を結ぶ六阿弥陀道です。
後背左「六あミだ 左一番目道」