○ 和気清麻呂像
○ 震災イチョウ
○ 日本の道100選
内堀通り
大手濠緑地内に、「和気清麻呂像」と「震災いちょう」があります。
銘板「大手濠緑地」 大手濠と皇居、大手町ビル群 大手濠緑地と遠景に平川橋
パレスサイドビル屋上から、内堀通りと大手濠緑地
「和気清麻呂像(佐藤清蔵作)」です。銅像除幕式が、昭和15(1940)年12月18日に行われました。
和気清麻呂は、神護景雲3(769)年に道鏡が皇位をうかがった時、その野望を挫きました。
大隅に配流、天皇の死後、道鏡失脚により復帰し、平安遷都を推進、造都に活躍しました。
外国の方々が来ては像の前で写真を撮っていきますが、どこかで紹介されているのでしょうか。
(碑文)
「國體擁護 元帥載仁親王
ここに立たるは護王大明神の神號を給はりし贈正一位和氣清麻呂公の像にして宇佐の大神の貴く畏き御教言を承り復奏の為に参内せるさまをうつせるなり公の誠忠は國史の上に顕著なるが殊に孝明天皇の宣命に身の危きを顧ず雄々しく烈しき誠の心を盡せるはと稱えさせたまひまた明治天皇の策命に日月と共に照り徹れる偉き勲をめでさせたまへりこれの像は明治の大御代に允許を忝うせしを今茲紀元二千六百年の記念として宮城の御濠に沿へる地に建設せるなり公の英霊は千載生けるが如く儼然として宮闕の下を離れず我が国體を擁護しまつり天地と倶にとこしへに存せむ
昭和十五年十ニ月 大日本護王會」
「紀元二千六百年記念
建設委員長
陸軍大将 従二位勲一等功四級 林銑十郎
寄贈者 石川博資」
「林銑十郎肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
明治9(1876)年2月23日〜昭和18(1943)年2月4日
<和気清麻呂と日本銀行券>
日本銀行券の肖像は右側に描かれるのがほとんどですが、一度だけ左側に描かれたことがあります。
和気清麻呂を肖像とする十円券です。
しかし、銀行などでお札を勘定する際に、左手でお札を持ち肖像と向き合うようにして数えるのが一般的だったため、
「十円札だけ肖像が確認しにくく不便」との声が寄せられ、それ以降、肖像が左側にレイアウトされることはなくなりました。
なお、GHQは、昭和21(1946)年、「聖徳太子以外は、軍国主義的な色彩が強いため、肖像として使用することを認めない」としたことから、
「紙幣の顔」として存続できたのは聖徳太子だけでした(以上、日本銀行HPを参照しました)。
(説明板)
「震災イチョウ
このイチョウは、かつて一ツ橋一丁目一番一帯にあった文部省の構内(現在のパレスサイドビル付近)にありました。1923年(大正12年)の関東大震災でこの地域一帯は焼け野原になりましたが、イチョウは奇跡的に生き残りました。
しかし、帝都復興計画による区画整理事業の中で切り倒されることになりました。それを聞いた当時の中央気象台長の岡田武松が惜しみ、帝都復興局長官の清野長太郎に樹木の保存を申し入れたところ、長官もその意義を理解しこの地に移植され、現在にまで残っています。」
内堀通りは「日本の道100選」に選定されており、内堀通りの歩道に面して、大手濠緑地に顕彰碑が建てられています。
(碑文)
「日本の道百選 内堀通り」「東京都」
(プレート)
「道 日本の道100選 内堀通り
昭和61年8月10日
建設省「道の日」実行委員会」
(プレート文)
「城郭と高層ビル 千代田区皇居外苑
皇居を内堀沿いに一周し、一方に江戸以来の歴史を偲ばせる城郭、掘割を望み、他方には近代的な高層ビル群が立ち並ぶ美しい景観を持つ。近年はジョキングコースとして親しまれている。」