Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 ○ 八景天祖神社
 ○ 八景園跡
 ○ 石地蔵
 ○ 日本帝國小銃射的協會跡碑


八景天祖神社(神明山天祖神社) 大田区山王2-8-2

     
 

<狛犬>

   
 

<神明山天祖神社由来>

(掲示)
「神明山天祖神社由来(抜粋)
 二.伝承
 境内社殿脇に大きな松があったが徐々に枯れ大正六年(1917)十月の暴風雨で倒れたが、この松は平安末期、寛治五年辛末頃(1091)頃鎮守府将軍八幡太郎義家(源頼朝の高祖父)が後三年の役に奥州征伐に赴くに当たり駒を止め、鞭を下し、鎧を掛けて土地の風景を眺め暫し汗を拭い取ったとのことで「八幡太郎鎧掛けの松」と古来伝承され、その孫松の大きな切り株(直径百六十一cm)は当社拝殿の中に大切に保管されている。」

   
 

<御神木>

    
 

<社殿>

 社殿内に「源八幡太郎義家、伝鎧かけの松」の三代目切株があります。
 大正6(1917)年10月の台風で倒れた切株です。

   
 

<西鳥居>

   
 

<吉縁の三樹・一体>

  
 

<伏見稲荷>

     
 

<庚申塔 青面金剛尊>

 寛政12(1800)年銘の庚申塔が祀られています。

    

    


八景園跡

 明治17(1884)年、実業家の久我邦太郎は、「大森駅」西側の台地、約3万3,000uの土地を購入し「八景園」を開園しました。
 明治21(1888)年には、蟹料理を名物とする「三宜樓」を開業し、郊外随一の遊園地として有名になりました。
 明治35(1902)年には皇后も行啓されました。
 大正2(1913)年に「三宜樓」が廃業し、大正11(1922)年から大正13(1924)年にかけて区画分譲され、住宅地に変わりました。

「東京市及接続郡部地籍地図」(東京市区調査会 大正1年)

  
 

「大森八景園」(旅の家つと第12 明治31-35)/「大森八景園」(仁山智水帖 明治35年)

   
 

「八景園跡」 大田区山王2-10-12付近(大田区HP掲載)

 大田区HPに掲載されている「八景園跡」は、その痕跡は何もありません。

  
 

石地蔵 大田区山王2-12-5

 路傍の石地蔵です。

   
 

○日本帝國小銃射的協會跡碑 大田区山王2-14 駐車場

 現在の大森テニスクラブ(大田区山王2-24-12)の場所は、
 明治22(1889)年から昭和12(1937)年頃まで、射的場として使われていました。
 駐車場に「日本帝国小銃射的協会跡」の碑があります。

   


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