天祖神社の女坂の石段の壁に「馬込文士村散策のみち」のレリーフがあります。
「馬込文士村 散策のみち
今では閑静な住宅地となっている山王・馬込の地に、大正末から昭和初期を中心とした時期、多くの文士や芸術家たちが住み、いつしか「馬込文士村」と呼ばれるようになりました。文士や芸術家たちが住み始めた頃、大森駅前の高台は都市近郊の別荘地として知られていました。一方の馬込は雑木林や大根畑が広がる一帯でした。
馬込の大根畑の真ん中に若い尾崎士郎・宇野千代が移ってきたのは大正十二年(一九二三)のこと。士郎は文学仲間を次々に誘い、社交的な二人は文士たちの中心的な存在となりました。大正十二年といえば関東大震災の年。東京近郊へ移り住む人々が急増し、馬込一帯も次々に宅地化され、景観が大きく変わってきた時代でした。」
「馬込文士村の住人」
文士村の住人だった43人の顔と名前が刻まれています。
「大正八年の大森駅の風景」
「望翠楼ホテル
大森丘の会」は芸術家を中心とした集まり。
山王周辺の芸術家や文士の社交場であった。」
「尾崎士郎と宇野千代
二人が夫婦であった頃、彼らの人柄を慕う仲間で家の中はいつも賑わい、
文士の話題が飛び交うので「馬込放送局」と呼ばれていた。」
「麻雀をする文士
関東大震災の騒ぎが一段落してくると、世間では新しい風俗が見られるようになりました。ダンスホールができ、洋装のモダンボーイや断髪姿のモダンガールが現われ、大正十四年には麻雀が大流行、麻雀カフェーができました。作家の広津和郎も麻雀カフェーに通った一人で、馬込の自宅にも麻雀を持ち込み文土たちに伝授しました。」
「モダンガール
文士村の女性たちが相次いで断髪。モダンガールは馬込村の人々を驚かせた。」
「ダンスパーティー
昭和の初期、文学の世界は転換期を迎えていました。まだ若かった馬込の文士たちにとっても将来に不安の多い時代であったといえます。仲間同士集まって気を紛らわそうというのか、麻雀に続いて馬込の面々が凝り始めたのはダンスでした。衣巻家のアトリエで開かれるダンスパーティに通ってきたのは、萩原朔太郎夫妻や室生犀星、宇野千代、時には川端康成夫人の姿もありました。」
「朔太郎・犀星の周辺」
萩原朔太郎と室生犀星は、北原白秋門下で、三人の肖像があります。
ほかに、平木二六、竹村俊郎、衣巻肖三、佐藤惣之助、三好達治とあります。
「馬込文士村時代、それは、女性活躍の時代でもあった。」
「大森相撲協会
昭和六年、文士の間で相撲の話が持ち上がり「大森相撲協会」が発足しました。文士(力士)には四股名をつけ番付表を作り、土俵は池上本門寺の裏手にあった空屋敷の庭にこしらえ、相撲大会を開きます。ダンス流行の頃からやや退廃的なムードが漂っていた文士村は、住人の入れ替わりがあってようやく落ち着きを取り戻しつつありました。」
「馬込文士村 散策のみち
馬込文士村と山王・馬込の移り変わり
明治9・大森駅開設。
17・暗闇坂の崖上に「八景園」が開かれる。
22・新井宿・不入斗村が合併、入新井村となる。(現在の山王・中央一〜四丁目付近)
・山王一帯が東京近郊の別荘地として知られるようになる。
大正元・山王の「望翠楼ホテル」開業。
・山王の「望翠楼ホテル」で付近の芸術家を中心とした「大森丘の会」開かれる。
・入新井村の人口増え始める。
4・東京?横浜の電車本格的に開通。
8・入新井村が入新井町となる。
11・山王の「大森ホテル」開業。
12・関東大震災起こる。
・大森テニスコート開場。
・文士たちが移り住み交流が盛んになって、尾崎・宇野家には「馬込放送局」なる呼び名がつく。
・広津和郎を中心に麻雀が流行。
昭和 ・断髪が流行。モダンガールが現れる。
・文士たちの伊豆・湯ヶ島往来が多くなる。
・衣巻家ダンスパーティーが開かれ、恒例となる。
3・馬込村が馬込町となる。
・文士たちの間で浮気や離婚が相次ぎ、住人の引っ越しや入れ替わりが頻繁になる。
・「大森相撲協会」が発足。文士たちが力士となる。
・文士たちの作品が認められるようになる。
「馬込文士村」に関する主な文献
◇尾崎士郎『空想部落』 ◇近藤冨枝『文壇資料 馬込文学・地図』
◇榊山潤『馬込文士村』 ◇染谷孝哉『大田文学地図』
◇野村裕『馬込文士村の作家たち』」