○ 水戸街道新宿の渡し(中川橋)
○ 水戸街道石橋供養道標
新宿(にいじゅく)の渡しは、水戸街道にあった亀有と新宿を結ぶ中川の渡し船でした。
明治17(1884)年、中川橋が完成したことで新宿の渡しは役割を終えました。
「江戸名所図会 新宿渡口」
挿絵には、中川でとれるコイはとても美味しいと書かれています。
「松戸街道にして川よりこなたは亀有といへり 此所を流るるは中川にして鯉魚を産す 尤美味なり」
「絵本江戸土産 新宿の渡し場」(広重)
挿絵には、
「前図小梅の引舟を過てこの所へ出る 川幅凡そ一町ばかり 尤夏秋洪水なれば 河原に渺々として海に似たり これ 水戸街道の出口 渡をわたりて名高き料理や等いと賑はし」
とあります。
「江戸名所百景 にい宿の渡し」(広重)
広重の浮世絵は、亀有と新宿のどちら側から描いたのか2説あります。
遠景の山は、亀有説では筑波山説と、日光連山説があります。
「小金野鹿狩之記」(嘉永2年 国立公文書館蔵)
小金原で行われた鹿狩に向かう12代将軍家慶の御成りが描かれています。
「新宿御仮橋」では、中川の新宿に架けられた御仮橋が描かれています。
<中川橋> 葛飾区亀有〜新宿
(新宿側)
<中川橋橋詰のタブの木> 葛飾区新宿2-9-1
「中川の歴史」と「タブの木の経緯」の説明があります。
(説明板)
「中川橋橋詰のタブの木
〜中川の歴史〜
中川は、埼玉県および東京都を流れ東京湾に注ぐ一級河川であり、利根川水系の支流です。起点は埼玉県羽生市街地にあり、起点を示す石橋が設置されています。
江戸時代初期までは利根川や荒川の本流でしたが、利根川の東遷事業などで本流が変わり、隅田川と利根川の間を流れる川で「中川」と呼ばれるようになりました。
江戸時代の中川には橋がひとつもなく、当時の中川橋周辺には、旧水戸街道の亀有村と対岸の新宿町を結ぶ「新宿の渡し場」がありました。近くには「柴又の帝釈天」があることなどから、参拝客や街道を往来する人で大変賑わっていたようです。
〜タブの木の経緯〜
中川橋東詰にあったタブの木は、昔から街道を往来する人々の”道しるべ”であったと伝えられており、地元住民から長く親しまれてきました。
しかし、平成4年から始まった中川橋架替え事業に伴い行った樹木調査の結果、移植が不可能な状況であったため、やむなく伐採されることとなりました。
現在植えられているタブの木は、伐採に先立って穂を採取し、育てた苗木です。また、”旧中川橋の名残”として、苗木の他、以前のタブの木の一部で製作したモニュメント、及び旧中川橋両岸の親柱を設置しております。」
新宿宿の水戸道と佐倉道の分岐点に石橋供養道標があります。
(説明板)
「区指定有形民俗文化財
水戸街道石橋供養道標
所在地 葛飾区新宿二丁目19番13号先
指定年月日 昭和52年(1977)2月13日
この道標は、水戸道と佐倉道の分岐点に、地域の万人講・不動講・女中講が共同で架橋した27の石橋供養のために建てたものです。建設は安永2年(1773)
10月から同6年11月にかけて行われました。石工は新宿町の中村佐右衛門で、造立時には道標の頭頂部に仏像が載せられていました。
水戸佐倉道は千住宿から分かれて葛西領に入り、宿場町新宿から佐倉道を分岐しました。この形で街道が整備されたのは天和元年(1681)以降で、元佐倉道が本来の街道筋でした。両街道が江戸川を渡る地点には、水戸道に金町松戸関所、佐倉道に小岩市川関所が置かれました。佐倉道は、成田山新勝寺や千葉寺(千葉市)への参詣が盛んになると、成田道や千葉寺道とも呼ばれるようになりました。
葛飾区教育委員会」
<石橋供養道標>
(正面)
「左 水戸街道 右 奈りだち者寺道」
(左面)
「安永六丁酉年八月吉日 石橋供養塔」
(右面)
「成田山 さくらミち 万人 不動 女中」
(裏面)
「安永二年巳ノ十月廿三日より酉ノ十一月十三日まで
石橋廿七ケ所建立仕候爲供養尊像辻石立置申候」