○ 日本橋南詰盛況乃図(ステンドグラス)
○ 日本橋共同溝
○ 都竜軒(山本嘉兵衛)
○ 日本橋高島屋本館(国重要文化財)
・正面口 ANGEL
・館外造形物
・館内設備
・高島屋史料館TOKYO
○ 日本橋高島屋本館屋上庭園
・屋上エレベーターホール
・笠森稲荷
・日本庭園・七福殿
・噴水
・ローズガーデン
・屋上塔屋
○ 高島屋と与謝野晶子
○ 早矢仕ライス発祥の地
○ 田山花袋と丸善二階の棚
○ ジル
○ 女夏
日本橋の歴史と変遷を表現したLED内蔵の大型ステンドグラスで、令和3(2021)年7月1日に設置されました。
株式会社高島屋の東京メトロへの寄贈です。
(説明板)
「この絵には、江戸から現在までの様々な街並みが混在しています。
当時の街区の様子が解る様に描かれた所もあれば、時代による様式の変化を一目にできる所もあります。また、町割りに殆ど変化がないのを確認できる所もあります。
色々な視点で眺められるようになっていますので、この地に思い致したり良き街並みを考える一助にして頂けたらと思います。
協賛:株式会社 高島屋」
「日本橋高島屋」
「高島屋呉服店南伝馬町」「京橋店」
関東大震災で焼失した南伝馬町の店(左)と、跡地に建てられた京橋店(右)が描かれています。
昭和8(1933)年3月に日本橋に上記の現在の店舗が開店します。
「サラシバ」
精緻なステンドグラスで、日本橋晒し場まで描かれています。
江戸時代、日本橋南詰の東側に「晒し場」がありました。
晒し刑を付加された罪人が、朝から夕方まで伝馬町牢獄から出されてこの場で晒されました。
(参考)「日本橋晒場所小屋掛之図」(刑罪詳説 佐久間長敬 国会図書館蔵)
「You are here」
唯一英語表記で、ステンドグラスが設置されている場所が示されています。
「貮阡廿壱年 山愚痴屋諦堂 畫」
B1出口の階段の左に、もう一つ階段があります。こちらは行き止まりです。
行き止まりに日本橋共同溝の見学窓が設けられています。
(説明板)
「日本橋共同溝
日本橋共同溝は、1972年(昭和47年)6月、中央区日本橋室町3丁目から同区京橋3丁目までの国道両側歩道下に旧建設省(現国土交通省)
の施工によって完成しました。長さは両側合わせて2.7キロメートルあります。
この中には、沿道のデパートや店舗に必要な電気、電話、ガス、水道、下水道などの管路が収容されております。
この共同溝の完成によって、道路が再び掘り返されることがなくなり、
それぞれの管路は安全に保護され、維持管理も容易に行なえるとともに地下から直接各需要者に供給することができます。さらに、路上の電柱、架空線、マンホ
ールなどが不要となり、街の景観もすっきりし、楽しく安心して歩けるようになりました。
このように共同溝は、都市道路を効率よく利用するうえに、また、都市環境を改善するうえに、きわめて重要な施設といえましょう。
国土交通省 関東地方整備局
東京国道事務所」
山本山は元禄3(1690)年、日本最古の煎茶商として創業しました。
六代目の山本嘉兵衛は「玉露」を発明しました。
創業地に本社とショップを構えています(高島屋三井ビルディング)。
「山本山 ふじヱ茶房」と「PEAK S PEAK CAFE」
「江戸日本橋通弐丁目山本嘉兵衛茶園之図」(三代豊国 都立図書館蔵)
御茶所の屋号「都竜軒」、店主「山本嘉兵衛」の店、通称山本山の宇治の茶園の茶摘女や集荷所が背景に絵が描かれています。
茶園には日光を遮るための覆いがかけられています。
茶摘女の着物と、左の日本橋の店の男の着物は「山本」の柄となっています。
「江戸日本橋通り弐町目 山本加兵衛茶園」(煎茶手引の種 山本都竜軒著 応為栄女画 嘉永1(1848)年 国会図書館蔵)
葛飾北斎の娘、応為が挿絵を担当し、「江戸日本橋通り弐町目」都竜軒の宇治の「山本加兵衛茶園」で茶摘をする女性たちが描かれています。
茶園は日光を遮るため屋根で覆われています。
「応為栄女筆」とあります。
江戸時代の山本山(ステンドグラス抜粋)
高島屋は天保2(1831)年に京都で創業、明治33(1900)年に東京店開店(京橋区西紺屋町)、
大正5(1916)年東京店新築開店(京橋区南伝馬町・関東大震災で焼失)、昭和2(1927)年東京店旧店舗跡に新築開店。
昭和8(1933)年3月、東京店新築開店(日本橋区日本橋通)。
現在の本館は昭和8(1933)年の開店当初の建物で、当初より全館冷暖房で話題を集めました。
当時の宣伝コピー、「東京で暑いところ、高島屋を出たところ」は一世を風靡しました。
平成24(2012)年に「東京店」から「日本橋店」へ改称。
平成30(2018)年に、日本橋高島屋S.C.(SHOPPING
CENTER)として、百貨店を核としたショッピングセンターとなりました。
ロゴマークの「高」は、表から裏からも見ても「高」で、表も裏もなし「おもてなし」を表しています(高島屋HP)。
<日本橋高島屋重要文化財見学ツアー>
日本橋高島屋本館は、国の重要文化財に指定されています。
重要文化財見学ツアーが催行されており、動画でも公開されています(こちら)。
鉄扉 水飲み場跡
正面口に置かれている銘板「ANGEL」、大理石の像です。
向かって右のバラの花を持った像は、弓矢を持っていればキューピッドですが、持っていないので天使(男の子)です。
大谷選手が所属するのは「Los Angeles Dodgers」、スペイン語の男性名詞の天使の定冠詞複数形が「Los
Angeles」(ロスアンヘルス)です。
向かって左の像は、掲示によると「女の子」だそうです。
正面口入口カーペット
<さくら通り口>
「FELICE」(幸運の女神像)です。
<南口>
「CUPIDO」(キューピッド)です。右腰に靭(うつぼ)が見えます。
<北口>
「CUPIDO」(キューピッド)です。左手に弓を持っています。
<地下鉄口>
高島屋のキャラクターである「ローズちゃん」がお出迎えです。
本館南側5階バルコニーに置かれている塑像です。
笠置季男の作品です。
本館東南角に設置されている、辻晋堂によるバラをモチーフとした造形です。
正面口の1階天井は格天井です。
エレベーターは、案内係が手動で操作しています。
象も降りた大理石の階段は、和服を着たご婦人に配慮して、段差が低く、踏み面の幅が広めです。
大理石には、アンモナイトなどの化石が見られます。
8階と屋上への直通エレベーターの扉絵は東郷青児によるものです。
エスカレーターの脇には「ローズちゃん」がいます。
○高島屋史料館TOKYO HP
入館無料。2019年の開館です。
<展示室>4階
<旧貴賓室>5階
【屋上庭園】 中央区日本橋2-4-1 日本橋高島屋本館屋上庭園
「笠森稲荷」
昭和29(1954)年の増築の際に、増築予定地にあった「笠森稲荷」を屋上に移設したといわれています。
(説明板)
「笠森稲荷
1954(昭和29)年に日本橋高島屋は建築・家村野藤吾氏の設計により増築を実施。その際、増築予定地にあった「笠森稲荷」を、屋上に移設したといわれています。
笠森稲荷は、摂津国島上郡(現在の大阪府高槻市)にある笠森稲荷神社の分社として日本橋地域で愛されていました。
笠森稲荷の銘板は、高島屋社長を務めた飯田新一の書です。2019(平成31)年3月の改装時に、祠全体を新築しましたが、釘隠しや扉の金物などの一部は屋上移設当時のものをそのまま再利用しています。」
日本庭園と七福神を祀る七福殿です。
(説明板)
「1933(昭和8)年の開店の際に作られた「日本庭園」と「七福殿」。七福殿は、福徳円満や商売繁盛を願い、高島屋発祥の地である京都の様々な寺社から七福神をお迎えしてお祀りをしています。
七福神はさまざまな福をもたらすことから、昔から多くの方に親しまれています。」
かつて象の高子はこどもを乗せて噴水の周りを歩きました。
(説明板)
「噴水
1933(昭和8)年の開店時に設置された「噴水」。
中央にある噴水口は開店の年に日本橋高島屋で個展を開催した陶芸家・小森忍氏の作品です。
日本橋高島屋の開店の際には、高島屋が京都発祥であることをお客様にアピールするため、祇園の月鉾を招いて噴水の横で実演を行いました。」
(説明板)
「ローズガーデン
2019(平成31)年3月の改装に際し、バラを新たに植えました。」
<象の高子>
昭和25(1950)年に、タイから小象がやってきて「高子」と名付けられ、日本橋高島屋の屋上で飼育されました。
「ゾウのいる百貨店」として有名になりました。
来た時は、550キロの小象でクレーンで屋上に上げられました。
その後体重1.5トンに成長し、屋上で飼うのは危険とのことで、昭和29(1954)年に上野動物園に寄贈されました。
屋上からは、重すぎてクレーンでは降ろせず、階段を歩かせて降ろしますが、屋上を離れるのを嫌がり途中で陳列棚を壊してしまったようです。
多摩動物公園開園時の昭和33(1958)年に上野動物園から移ります。平成2(1990)年3月13日に亡くなります。
<屋上塔屋とガラス大屋根>
昭和29年の本館増築(村野藤吾氏設計)時に、「高子」をイメージした塔屋造形が作られました。
内部は機械室として使用されています。
アーチ型のガラス大屋根が後方に見えます。
ガラス大屋根は、本館には荷重をかけずに新館側から架けられています。
本館と新館の間にある区道が歩行者専用道路となり、ガラス大屋根が設置され、2018年に「日本橋ガレリア」となりました。
ガラス大屋根と屋上塔屋を下から見上げた光景です。
<階段>
高子が降りた階段でしょう。
高島屋は大正2(1913)年、全国の産地から着物の新柄を募集して審査行う「百選会」を創設しました。
文化人が顧問となり、与謝野晶子は大正6(1917)年ごろからそこに名を連ねました。
流行色の命名や、入選作品のきものや帯に対して和歌を詠むのが晶子の役割でした。
与謝野晶子が詠んだ詩歌は463首7編に及びます。
「百選会図録 第23回」(百選会編 大正13年 国会図書館蔵)
序文よりの抜粋です。
ハヤシライスを生み出したのは、丸善創業者早矢仕有的(はやしゆうてき)と言われています。
早矢仕有的の誕生日である9月8日は「ハヤシの日」とされています。
(説明板)
「ハヤシライスの生みの親<早矢仕有的>
ハヤシライスを生み出したのは、丸善創業者早矢仕有的(はやしゆうてき)と言われています。
丸善の百年史には、「幕末か明治の初年のことであろう。友人が訪問すると、有的は有り合わせの肉類や野菜類をゴッタ煮にして、メシを添えて饗応するのが常であった。そこから人々はこの料理をハヤシライスといい、ついにはレストランのメニューにまで書かれるようになった」という一節があります。
こういった内容から当時すでに商社を経営していて好奇心旺盛な早矢仕が友人を驚かせようと、今のハヤシライスに近い料理をふるまったと考えられます」
「文明開化と丸善
丸善は福沢諭吉の門下生であった早矢仕有的により、明治2年(1869年)に商社として誕生しました。創業にあたって書かれた「丸屋商社之記」を開くと、「日本全国ノ繁盛ヲ謀リ同国人ノ幸福ヲ助ケ成サヾル可ラズ」という力強い言葉が目に飛び込んできます。当時の若々しい日本の意気込みを良く表していると言えましょう。」
田山花袋は、明治32(1899)年から本町三丁目の博文館に勤めていました。
昼飯の済んだあとに丸善によく出かけ、書棚で新しい外国の思潮に触れたり、注文した本を丸善へと取りに行っていました。
『日本橋附近』(田山花袋著)より抜粋
「本町の社につとめている時分、そこから通三丁目の丸善へと行くために、よくその日本橋を渡って行ったことを思い起した。それは私に取っては忘れられない記憶のひとつだった。私は昼飯の済んだあとの煙草の時間などによく出かけた。そして私はあの丸善のまだ改築されない以前の薄暗い棚の中を捜した。手や顔がほこりだらけになることをもいとわずにさがした。何ゆえなら教育書の中にフロオベルの『センチメンタル・エヂュケイション』がまぐれて入っていたり、地理書の棚の中にドストイフスキーのサイベリアを舞台にした短編集がまじって入っていたりしたからであった。私はめずらしい新刊物の外によくそこで掘出したものをした。そしてその本を抱いてにこにこしながらもどって来た。
少くとも丸善の二階は、一番先きに新しい外国の思潮ののぞかれるところであった。
(中略)丸善の棚をとおして、十九世紀末から二十世紀の初期にわたって海外の思潮に触れた形は、私に取ってはひとつの誇りとするに足りた。私は今でもその頃のことをおりおり思い起した。」
「丸善本社屋」(明治大正建築写真聚覧 建築学会 昭和11年 国立国会図書館蔵)
丸善は、明治2(1869)年に横浜での商社としての創業に続いて、翌明治3(1870)年に東京日本橋店を開設しました。
木造二階建ての土蔵造りでした。
明治42(1909)年12月に「丸善株式会社」の本社屋が竣工しました。
エレベーターを備えた赤煉瓦造りの4階建て鉄骨建築です。
1階は洋品・文房具・国内刊行書、2階は洋書、3階は事務室、4階はストック置場となっていました。
帝国ホテルでの落成披露パーティには、徳富蘇峰、夏目漱石などが出席しました。
大正12(1923)年の関東大震災で、地震による建物への被害はなかったものの、その後の火災で焼失しました。
「ジル 1988 朝倉響子」
「女夏 1986 佐藤忠良」