〇 隅田川七福神
〇 福禄寿尊堂
〇 多賀神社
〇 桑の茶屋跡
〇 文人達の足跡
文化元(1804)年、骨董商の佐原菊塢が梅やすすきなどの草木を集め、幕臣の多賀家屋敷跡に造園した庭園です。
名称は酒井抱一が「梅は百花のさきがけ」の意から名付けたとされます。
現在は都営庭園となり、国の史跡・名勝に指定されています。
なお、園内の売店「茶亭さはら」は、佐原鞠塢の末裔(8代目及び9代目)が運営されています。
「江戸歳事記 寺島村百花園 秋の七草」
「江戸切絵図」
「新梅屋敷」と記載されています。
「東都名所年中行事 八月 向しま花屋敷秋の花ぞの」(二代広重 都立図書館蔵)
座敷には隅田川焼の徳利、お猪口、都鳥のはしおきが見えます。
「東都三十六景 向しま花屋敷七草」(二代広重)
<向島百花園入口>
「描かれた百花園」
「向島百花園の歴史をたどる」
向島百花園の作庭者である佐原鞠塢は、明和初年に仙台の農家に生まれ、平八と称しました。
天明年間(1781〜89)、江戸に出て中村座の芝居茶屋に奉公し、十年余年で財をなして日本橋住吉町に骨董屋を営み、北野屋平兵衛といいました。
寺島村の旗本・多賀氏の屋敷跡地三千余坪を購入して、花園を開きました。
「百花園に集まった文人達のネットワーク」「江戸の伝統工芸」
(説明板)
「隅田川七福神
文化元年(一八○四)向島百花園が開園してからここに集まる文人墨客たちが、園主佐原鞠塢が福禄寿を祭っているのを知り、この隅田川の東岸にも七福神がそろわないものかと考え、七福神にそれぞれ縁故をもつ神社仏閣を探し出した。そして、初春七草の間に寿福を祝い、家門繁栄、家業隆盛を願う初参りの行事を創始したのが、隅田川七福神のはじまりである。七福神の「七」という数は、陽を表わす奇数であって、古くから、めでてい数字とされている。七難即滅、七福即生、万姓安楽という語句は七福神の語源ともいわれ、寿命、有福、人望、清廉、愛敬、威光、大量の七つの神々を象徴するもので、心新たな年頭にあたって参拝し、その年の至福を祈念するならわしが七福神初詣でのいわれである。
昭和四十五年十一月三日 建設 墨田区」
向島百花園は、寺島村の旗本・多賀氏の屋敷跡地に造られたので、
「多賀神社」は多賀屋敷の邸内社だったのかもしれません。
掲示板「多賀神社」があるのみで詳細不詳です。
<御成座敷>
ここには、明治時代に上野の博覧会で使用した二階建ての建物があり、桑の木で作られていたことから「桑の茶屋」と呼ばれていました。
しかしながら、昭和20年(1945)3月の東京大空襲で百花園が壊滅的な打撃をうけた時に、桑の茶屋は取り壊されました。
<梅洞水>
<つる物棚>
<ハギのトンネル>
百花園には、庭づくりに協力した文人墨客たちの足跡が、石碑に残されています。
芭蕉の句碑を含め、合計29基の石碑が点在し、そのうち14基は句碑で、俳句が読まれています。
その他は、歌碑、仏画碑、記念碑、追碑善などです。
い 東京市碑(向島百花園来由の碑) 昭和14年7月東京市
ろ 福禄寿尊碑
は 芭蕉句碑「春もやや けしきととのう 月と梅」
に 千樹庵益賀句碑「鳥の名の都となりぬ梅やしき」
ほ 亀田鵬斎「墨沱梅荘記碑」
へ 雲山先生看梅詩碑
と 茶筅塚と柘植黙翁「織りたらん 草の錦や 花やしき」
ち 松尾芭蕉「こんにやくの さしみも些し うめの花」
り 山上臣憶良「秋の野に 咲きたる花を 指折りかき数うれば 七種の花
芽の花 乎花 葛花 嬰麦の花
姫部志 また藤袴 朝貌の花」
ぬ 大窪詩仏画竹碑
る 金令舎道彦(鈴木道彦)「今日の月 さても惜しまぬ 光りかな」
を 其角堂永機「朧夜や たれをあるじの 墨沱川」
わ 初代河竹新七「しのぶ塚」
か 2代河竹新七「きょうげん塚」
よ <飯島光峨翁之碑銘>
た 井上和紫「紫の 由かりやすみれ 江戸生れ」
れ 芝金顕彰碑
そ 鶴久子「空蝉の 世のうきことは きこえこぬ いわおの中も 秋風のふく」
つ 二神石碑
ね 最中堂秋耳「限なき そらの要や 望の月」
な 矢田けい哉「花暮れぬ 我も帰りを 急うずる」
ら 日本橋石柱
「日本橋の変遷は木橋、石橋、鉄橋時代と各あるが、石橋時代の模造品と思うが、文字は徳川慶喜と伝える。」
む 月岡芳年翁之碑
う 螺舎秀民「芦の芽や 田へ来水も 角田川」
ひ 杉谷雪樵芦雁画碑
の 七十二峰庵十湖「何事も かかる浮世か 月の雲」
お 雪中庵梅年「黄昏や 又ひとり行く 雪の人」
く 北元居士「水や空 あかり持あふ 夜の秋」
や 寶屋月彦「うつくしき ものは月日ぞ 年の花」