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 峯ヶ岡八幡神社



○峯ヶ岡八幡神社 川口市峯1304 HP

 増田橋「正八幡宮道標」(足立区郷土資料館にて保存)に導かれて、峯ヶ岡八幡神社へ参拝。
 当社は、谷古田領にあったため「谷古田八幡宮」とも呼ばれていました。
 谷古田領は、鎌倉の「鶴岡八幡宮」の社領でした。
 

「新編武蔵風土記稿 八幡社図」

 元禄10(1697)年に建造された本殿や、御神木の大銀杏が見えます。

  
 

<正八幡宮道標>

 増田橋の「正八幡宮道標」について、こちらで記載
 道標には是より一里とありますが、google徒歩検索だと5.9kmあります。

  
 

「江戸近郊道しるべ」(村尾嘉陵)

 村尾嘉陵は文政2(1819)年に谷古田八幡宮を参詣しています。
 略図には千住→竹の塚→保木間→八束(谷塚)→柳島→谷古田が見えます。

  
 

<参道入口>

 県道34号に面した参道入口です。
 「参道鳥居建設記念碑 昭和63年2月吉日」があります。
 鳥居は東日本大震災の被害で撤去されています。

    
 

<弁天池/弁天堂>

    

    
 

<石燈籠参道>

 参道の両脇には石燈籠がずらりと並び壮観です。

    

   
 

<両部鳥居/狛犬>

 平成20(2008)年に奉納された両部鳥居です。
 狛犬は明治2(1869)年の奉納です。

     

   
 

<山崎健吉氏之像>

 参道左手にあります。経歴板がないので、詳細不詳。

    
 

<峯八幡公園>

 参道左手奥には、「峯八幡公園」があります。

  
 

<手水鉢>

 参道右手にある元文5(1740)年銘の手水鉢です。

   
 

<須賀社(牛頭天王)>

 手水鉢の先に「須賀社(牛頭天王)」があります。

  
 

<峯ヶ岡八幡神社>

(説明板)

「峯ヶ岡八幡神社
   所在地 川口市大字峯
 峯ヶ岡八幡神社は、平安時代の天慶年間(九三八〜九四七)に源経基の創建と伝えられ、かつては足立群谷古田領三カ村(川口市新郷、安行の一部及び草加市の一部)総鎮守に列せられた由緒ある神社である。
 ご神体の木造僧形坐像は、檜材寄せ木造りで、木造のしとね(敷物)の上に坐し、袈裟をかけ、左手に経巻、右手に錫杖を持った高さ二十四センチメートル、肩幅十二センチの像で、胎内をえぐり頭部ははめ込みの方法をとった鎌倉時代後期のすぐれた木造彫刻である。胎内には、造像時の願文や経文等の三十六点が納められている。
 胎内願文は、弘安五年(一二八二)七月二十三日に書かれたもので、「なもはちまんたいほさつ こんしゃうあんをん らいしゃうかならずみちひかせたまえ 弘安五年七月二十三日 清原光兼」(大きさ縦十二センチメートル、横六センチメートル)とあるように、小紙片に子孫繁栄、病気全快、現世安穏、往生極楽等切実な願いを記したものが多い。いづれも当時の人々の安穏な生活を願う姿を偲ばせるもので、人々の心を知る貴重な資料である。
  昭和五十八年三月  埼玉県」

  
 

<日中戦争 太平洋戦争 戦没者慰霊碑>

 平成3(1991)年12月の建立です。

  
 

<御嶽社>

   
 

<川口市教育委員会説明板>

(説明板)
「埼玉県指定有形文化財
 木造僧形八幡坐像(付 紙本墨書造像願文等三十七点)
               (昭和39年3月27日指定)
 この像は、当神社の神体として安置されています。像は応神天皇の霊といわれる『八幡神』が仏(菩薩)の姿に表現されたもので、八幡大菩薩とも呼ばれます。このような仏の姿の神像は、奈良時代から神と仏は同じもので、神は仏が姿を変えてあらわれたとする考えが生まれ、以後そのような説が広められたことにより造られました。像は2枚の檜材の寄木造りで、札盤型台座の上に袈裟を掛け、左手に経巻、右手に錫杖を持って座しています。像・台座・光背は漆による彩色が施され、頭部ははめ込みとなっています。鎌倉時代後期の優れた木造彫刻です。また、胎内には造像時のものと思われる願文など37点の文書が納められていました。」

「峯ヶ岡八幡神社建立の歴史的背景
 平安時代末、武蔵の国司には源経基や義家など、当時勢力おあった家柄の者が多く派遣されていましたが、次第に地元荘園領主たちは源氏に土地を寄進したりして主従関係を結ぶようになりました。このようにして勢力を拡張した源氏は、東国各地に氏の氏守である八幡神社を建立し、主従関係にあるものを氏子として寄らしめました。当神社もその一つで、社伝によると、天慶年間(938〜947)に源経基が建立したとあります。
経基は相次ぐ戦乱のおり、同社に詣で戦勝を祈願したと伝えられています。
 治承4年(1180)、源頼朝は兵士を打つため伊豆に挙兵、当時奥州藤原氏のもとにいた弟義経も兄の挙兵に参加するため鎌倉へと赴きました。途中、“こかわぐち”(現在の川口)の渡しで兵をあらためたことが『義経記』には記されています。
 鎌倉幕府成立後は、以前からの体制である知行国・荘園制度を温存させながら、新たに御家人を守護・地頭としてこれら勢力に割り込ませることにより、幕府と御家人の主従関係を強めていきました。かつては、足立郡谷古田領32ヶ村(新郷・安行の一部及び草加市の一部)の総鎮守でした。」

     
 

<飯田先考之碑>

 駐車場に、昭和9年建立の「飯田先考之碑」が建っています。教育者のようです。

     
 

<神門>

 神門と神門から振り返った参道です。

   
 

<玉[木久](たますぎ)霊神>

 明治12(1879)年の奉納。

   
 

<峯ヶ岡八幡神社 御由緒>

(説明板)

「峯ヶ岡八幡神社 御由緒
   川口市大字峯一三○四
 御縁起(歴史)
 峯ヶ岡八幡神社は、平安時代朱雀天皇の治世にあたる天慶年間(九三八ー九四七)に清和源氏の祖、源経基の創建と伝えられ、足立郡谷古田領三十二ヶ村(川口市新郷地区・安行地区の一部・草加市西部)の総鎮守に列せられた源氏ゆかりの神社です。源経基は、天慶年間に平将門が下総国岩井で乱を起こしたとき、将門追討の勅命を受け、武蔵国で幾度と合戦し、合戦中に度々奇瑞霊夢を受けついに将門を滅ぼしました。その霊夢の告により、この峯の地に八幡宮を一社造建したのが谷古田八幡宮であり現在の峯ヶ岡八幡神社とされています。数々の源氏の武将に崇敬が篤く前九年の役(一○五一ー一○六二 奥州安倍氏の乱)の際には、源頼義、義家父子が必勝祈願をし、又後三年の役(一○八三ー一○八七奥州清原氏の乱)の際にも源義家・義光の兄弟が必勝を祈願しています。特に義光が必勝祈願をした時には、ご神木の大銀杏より二羽の鳩が現われ、金の幣帛となり奥州の地の方へ飛び去りました。そして義光の合戦の度にその金の幣帛が現れ、義光は合戦すべてに勝利したという大銀杏伝説が残っています。
 (以下略)」

  
 

<御神木の大銀杏>

 峯ヶ岡八幡神社の境内、本殿に向かって右側に、推定樹齢700年の大きな銀杏の古木があります。気根も見えます。
 この大銀杏は、当社に参詣した若狭の八百比丘尼がひと休みした後に置き忘れていった杖が根付いて成長したと伝えられています。
 また、この大銀杏に新羅三郎義光が必勝祈願したと伝えられています。

     
 

<力石>

 大銀杏の根元に、15個の力石があります。石燈籠の基台も混じっています。
 江戸随一の力持ちといわれた三之宮卯之助の力石もあります。

    
 

 「三ノ宮宇之助」の刻字が見えます。
 「指石三十五メ目 三ノ宮宇之助 當村常次郎 當村石工千代吉」

  
 

 60貫目(225kg)、50貫目(187.5kg)、30貫目(112.5kg)等々の力石。

      
 

<八幡神社の社叢>

(説明板)

「川口市指定天然記念物
 峯ヶ岡八幡神社の社叢
  (昭和51年2月19日指定)
 この神社の森は、シイ.シラカシ.タブノキなどの大木が多く、川口の自然植生である照葉樹林のおもかげを濃く残している社叢です。
 境内にあるケヤキ.シイ.タラヨウ.イチョウは、市の保存樹木にも指定されており、この他にムクノキ.スギなどの大木もあります。特に、社殿右手にあるイチョウは、目通り(地上より1.5mの高さの樹周)8m、推定樹齢600年という県内有数の巨木です。また、大木の幹にはノキシノブが着生し、林内には、ムラサキシキブ.ガマズミ等の低木やベニシダ.ヤブミョウガ.ノブキなどの草本が成育しています。
 この社叢は、峯ケ岡八幡神社の歴史的意味も含めて、川口の本来の自然を伝えるものとして保存的価値が高いと思われます。
  川口市教育委員会」

    
 

<拝殿・本殿>

 本殿は、元禄10(1697)年の再建です。

     
 

<社務所>

  
 

<日枝社・神明社・白山社>

 社殿右手の奥に「日枝社・神明社・白山社」

  
 

<諏訪社>

 社殿左手の奥に「諏訪社」

   
 

<稲荷社>

 社務所脇に「稲荷社」

   
 

<石造物>
 
  


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