Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 青木昆陽/不動公園

  ○ 青木昆陽墓
  ○ みどりの散歩道
  ○ 不動公園
  ○ 青木昆陽像
  ○ 青木昆陽記念碑
 
 青木昆陽/幕張 別頁

  ○ 青木昆陽甘藷試作地
  ○ サツマイモの普及
  ○ 昆陽神社


青木昆陽墓 国史跡 目黒区下目黒3-5 瀧泉寺墓地

 青木昆陽
  元禄11年5月12日〜明和6年10月12日(1698年6月19日〜1769年11月9日)

 瀧泉寺の裏手の瀧泉寺墓地に、国史跡「青木昆陽墓」があります。
 墓地の横を通る「目黒区みどりの散歩道」は、墓地から先は階段坂となって山手通りへと至ります。

    

   

<青木昆陽墓>

(正面)
 「甘藷先生墓」
  青木昆陽が生前自ら刻んだものです。

   

(左側面)
 壽塚(生前建てた墓)を作り「甘藷先生墓」と書した由来が記されています。
 「享保二十年 青木敦書蒙命種甘藷 因人呼予曰甘藷先生 甘藷流傳 使天下無饑人 是予願也 今作壽塚 書石曰甘藷 先生墓」

  

(右側面)
 碑銘が追刻されています。
 「君諱敦書〜」

    

(台石)
 明治2(1869)年に東京府の薩摩芋間屋が墓を修築した際の台石です。

   

<誠心孺人墓/栄薫君青木氏墓>

 青木昆陽墓の左にあるのは「誠心孺人墓」(青木昆陽の妻「住」の墓)です。
 その左は「栄薫君青木氏墓」(青木昆陽の長女の墓:延享2(1745)年3月〜明和元(1764)年10月)です。
 さらに横に並んでいる墓石には須田の文字が見え、須田家の墓石かと思います。

     

<須田家墓>

 青木昆陽は、当時の住職だった須田一族の篤信を得て大鳥神社裏に隠居所を構えていました。
 青木昆陽の墓も、須田家墓所の中にあります。

  

<史跡標柱>

 (正面) 「史跡 青木昆陽墓」
 (左側面)「昭和三十四年三月二十日 東京都」
 (右側面)「昭和十八年五月一日文化財保護委員会指定」

   

<生誕三百年報恩塔>

 (正面) 「甘藷先生生誕三百年報恩塔」
 (左側面)「甘藷先生 墓所ノ改修工事ニ際シ
       先生ノ遺言ニヨリ
       御尊父半右衛門ノ霊ヲココニ供養ス」

    

(説明板)
「国指定史跡
 青木昆陽墓
  所在地 目黒区下目黒三ー二○ー二六 滝泉寺内
  指定 昭和十八年五月一日
 江戸時代中期の儒者。通称は文藏。元禄十一年(一六九八)に生まれ、京都の儒者伊藤東涯に学ぶ。幕臣大岡忠相の知遇を得て幕府に仕え書物方となり、のち評定所儒者・書物奉行となる。
 彼は八代将軍徳川吉宗の命により蘭学を学び、長崎に遊学し、『和蘭文学略考』『和蘭貨幣考』『和蘭語訳』などを著述する。また『蕃藷考』を著し、救荒作物として甘藷の栽培を奨励したために“甘藷先生”と呼ばれた。一方、幕命によりしばしば関東・東海地方に出向き古文書を調査・収集した。明和六年(一七六九)歿。行年七十二歳。
  昭和六十二年三月二十日建設  東京都教育委員会」

  

<甘藷先生 青木昆陽の言葉>

 「甘藷先生 青木昆陽の言葉
  享保二十年 甘藷を種う
  甘藷流傳して
  天下をして飢うる人無からしむる
  是れ余が願なり」

   

「目黒不動附近」(一日の行楽 田山花袋 大正7年)

 田山花袋は、青木昆陽墓をよく訪ねています。
 「行人阪を下りて、甘藷先生の墓をもよくたづねた。ここには栗の林があって、秋は栗の実が澤山に落ちた。
  それに、此処から目黒の不動堂の後をぬけていく近路があって、そこは下に五反田あたりの田圃を見渡して風景が好かった。」

  


みどりの散歩道

 青木昆陽墓の前は、目黒区みどりの散歩道(不動コース)で、不動公園脇を通って目黒不動の裏門に通じています。

 青木昆陽墓からすぐのところに目黒不動尊の鳥居があります。ここは毎月28日のみの開門です。

    

 道に「みどりの散歩道 下目黒 目黒区」のプレートがあります。

   

 柵の向こうに石物が見えます。境内に入って正面に行こうかと思うも、立ち入り禁止の場所でした。

    

 大きな石塔と境内の外を向いている狛犬2基が見えます。地主神(大行事権現)の裏手に当る場所です。

    

 こちらは通常開いている裏門です(塀門は20時頃)。
 ここから境内に入ると、大本堂の裏手で、大日如来像が座しています。

    


不動公園 目黒区下目黒3-21-9

 不動公園の裏が青木昆陽の墓がある瀧泉寺墓地です。

<上段の広場>

    

<古台遺跡も眠る不動公園>

(説明板)
「古台遺跡も眠る不動公園
 昭和9年にオープンしたこの公園は、碑文谷、清水池公園の両公園と並び、区内で最も古い公園の一つ。地下には古代遺跡が眠る。昭和55年の発掘調査では、目黒区で初めて弥生後期の竪穴式住居跡が出土。縄文期の土器、石器類も多数見つかっている。
公園裏の共同墓地には、サツマイモ栽培を奨励し、【甘藷先生】と呼ばれた江戸の儒学者・青木昆陽の墓がある。この昆陽の道徳を偲び、毎年10月28日に開かれる「甘藷まつり」は、大勢の人で賑わう。
「江戸名所 目黒不動尊」(広重画)「住居跡」を掲示」

   

<下段の広場>

    

<目黒不動公園沿革/国旗掲揚台>

(銘文)
「目黒不動公園沿革
 目黒不動尊瀧泉寺は由緒ある古名刹にして其境内は夙に行楽の地として知らる
 昭和七年大東京實施の頃不動尊境内を中心とする公園開設の議起りしが會會隣地益田弘氏は其邸地一千餘坪を擧げて不動尊へ寄進の志あり仍て本市は寺と協議を遂げ邸地は之を市公園用地として受領し境外地千四百餘坪を併せて目黒不動公園とし保健休養と児童遊園の設備を施すことゝせり
 今施設成りて開園するに當り其由來を記して瀧泉寺並益田氏の芳志を後世に傳ぶ
  昭和九年十二月  東京市」

    


○さつまいも畑と青木昆陽像

 瀧泉寺大本堂横のさつまいも畑に、サツマイモを持った青木昆陽像があります。

    

    


甘藷先生記念碑

 滝泉寺の独鈷の滝の西側に、有志一同が建てた高さ7mに及ぶ巨碑「昆陽青木先生之碑」(明治44(1911)年銘)と
 芝麻布の甘藷組合が建てた「甘藷講碑」(明治31(1898)年銘)があります。

    

    

「墓碑史蹟研究 第5巻」(磯ケ谷紫江 昭和10年)(出典元

  


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