応徳3(1087)年に浅草黒船町に創建。享保17(1733)年の浅草の火災で、黒船町も被災し社地は焼失しました。
このため現在地に、町とともに神社も移転しました。
当時の境内は、木が生い茂る「雀の森」と呼ばれていました。
「雀の森跡」(江東区牡丹1丁目付近)として江東区史跡に指定されています(説明板等の設置はありません)。
道灌七稲荷の一つに「雀森稲荷」がありますが、当社は道灌の時代よりも後に当地に遷座してきているため、
当社そのものは雀森稲荷ではありませんが、ご当地に当ります。
鳥居をくぐってすぐ右手に「東海道四谷怪談」の作者である四世鶴屋南北宅跡の説明板があります。
江戸時代には彼の自宅が境内にあり、南北終焉の地として知られています。
「江戸切絵図」
移転後の「黒船稲荷社」が記されています。
<四世鶴屋南北宅跡> 江東区史跡
(説明板)
「四世鶴屋南北宅跡(牡丹1〜12〜9)
四世鶴屋南北は、江戸戯作界の第一人者で、大南北と称されました。宝暦五(一七五五)年、日本橋新乗物町(中央区)に生まれ、文政十二(一八二九)年十一月二十七日、黒船稲荷地内の居宅で没しました。享年七十五歳でした。
幼名を源蔵といい、父親は紺屋の型付け職人でしたが、狂言作者を志し、家業をすてて初代桜田治助の門下に入りました。安永六(一七七七)年桜田兵蔵の名で作者として初めて中村座に名が出ました。天明二(一七八二)年に勝俵蔵と改め、文化元(一八○二)年、河原崎座の『天竺徳兵衛韓話』で大当たりをとり、作者としての地位を確立させました。以降、『心謎解色糸』『謎帯一寸徳兵衛』などの作品を次々と発表し、当代随一の名作者とうたわれ、文化八(一八一一)年、鶴屋南北を襲名しました。その後『お染久松色売販』『東海道四谷怪談』などの傑作を書き続けました。
文化十四(一八一七)年頃には、亀戸村に住み、亀戸の師匠と呼ばれていました。また、代表作『東海道四谷怪談』の中に、砂村や深川三角屋敷(深川1‐5)をとり入れるなど、本区とかかわりの深い戯作者です。
平成三年三月 江東区教育委員会 」