Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 浅草御蔵/首尾の松/御厩河岸の渡し

  ○ 浅草御蔵跡
  ○ 首尾の松碑
  ○ 蔵前橋碑  
  ○ 富士見の渡し(蔵前の渡し)
  ○ 御厩河岸の渡し


浅草御蔵跡 台東区蔵前2-1

 浅草御蔵は、江戸幕府が全国の直轄地(天領)から年貢米や買い上げ米などを収納・保管した米蔵です。
 「浅草御蔵跡」碑が、昭和31(1956)年、浅草南部商工観光協会が建立しています。

    

(説明板)
「浅草御蔵跡  台東区蔵前二丁目一番
 浅草御蔵は、江戸幕府が全国に散在する直轄地すなわち天領から年貢米や買い上げ米などを収納、保管した倉庫である。大坂、京都二条の御蔵とあわせて三御蔵といわれ、特に重要なものであった。浅草御蔵は、また浅草御米蔵ともいい、ここの米は、主として旗本、御家人の給米用に供され、勘定奉行の支配下に置かれた。
 元和六年(一六二○)浅草鳥越神社の丘を切り崩し、隅田川西岸の奥州街道沿い、現在の柳橋二丁目、蔵前一・二丁目にかけての地域を埋め立てて造営した。このため、それ以前に江戸にあった北の丸、代官町、矢の蔵などの米蔵は、享保(一七一六〜三六)頃までに浅草御蔵に吸収された。
 江戸中期から幕末まで、浅草御蔵の前側を「御蔵前」といい、蔵米を取り扱う米問屋や札差の店が立ち並んでいた。現在も使われている「蔵前」という町名が生まれたのは、昭和九年のことである。
 碑は、昭和三十一年六月一日、浅草南部商工観光協会が建立したものである。
  平成十一年三月  台東区教育委員会」

  
 

「江戸切絵図 東都浅草絵図」

 日光街道が鳥越川を渡る鳥越橋には「里俗天王橋ト云」とあります。鳥越刑場がかつてあったためでしょう。
 浅草御蔵の八番堀の横を、鳥越川が隅田川に合流しています。
 四番掘と五番掘の間に、松の絵と「首尾ノ松」との記載があります。
 一番掘の右手に「御厩カシ渡シ場」との記載があります。

  
 

「隅田川長流絵巻」(狩野休栄書 大英博物館所蔵)

 隅田川テラスに展示されている狩野休栄の「隅田川長流絵巻」です。
 首尾の松もしっかり描かれています。
 貴重な浮世絵を大英博物館からレプリカで展示した東京都に拍手喝采します。

   
 

「浅草御蔵絵図」(東京都江戸東京博物館所蔵)

 同じく、隅田川テラスに展示されている「浅草御蔵絵図」です。

  
 
 

「東都隅田川両岸一覧」(鶴岡蘆水/画 天明1(1781)年)

 「東都隅田川両岸一覧」西巻の浅草御蔵部分の抜粋です。複数枚を合成しています。
 御蔵自体は霞で隠していますが、当時の状況がわかる錦絵です。
 掘の水門は閉まっていますが、開いている水門も見えます。
 左手に、この場所が釣りの名所だったことを示す釣り船が見えます。鳥越川の河口部も見えます。 
 中央に、竹柵を突き破って隅田川に垂れ下がる「首尾の松」が見えます。
 右手に、「御馬やがし渡舟」が見えます。

  

    



首尾の松碑 台東区蔵前1-3-37

 浅草御蔵には、米を荷揚げするために一番堀から八番堀まで櫛状の堀がありました。
 その堀の四番堀と五番堀の間の埠頭の先端にあった松が「首尾の松」でした。
 柳橋から出た吉原通いの猪牙舟の遊客が、船上で首尾の松に今宵の首尾一貫を祈願し、
 帰路には首尾貫徹の御礼参りをする場として有名でした。

    
 

<首尾松碑>

 明治45年に用立てされていた神田橋城壁の石材を用いたようです。

 (碑正面)
  「首尾松」

 (碑側面)
  「明治四十五年四月用・・」「神田橋城壁石材造」

     
 

(説明板)
「首尾の松  台東区蔵前一丁目三番
 この碑から約百m川下に当たる、浅草御蔵の四番堀と五番堀のあいだの隅田川岸に、枝が川面にさしかかるように枝垂れていた「首尾の松」があった。
 その由来については次のような諸説がある。
一、寛永年間(一六二四〜四三)に隅田川が氾濫したとき、三代将軍家光の面前で謹慎中の阿部豊後守忠秋が、列中に伍している中から進み出て、人馬もろとも勇躍して川中に飛び入り見事対岸に渡りつき、家光がこれを賞して勘気を解いたので、かたわらにあった松を「首尾の松」と称したという。
二、吉原に遊びに行く通人たちは、隅田川をさかのぼり山谷堀から入り込んだものだが、上り下りの舟が、途中この松陰によって「首尾」を求め語ったところからの説。
三、首尾は「ひび」の訛りから転じたとする説。江戸時代、このあたりで海苔をとるために「ひび」を水中に立てたが、訛って首尾となり、近くにあった松を「首尾の松」と称したという。
 初代「首尾の松」は、安永年間(一七七二〜八○)風災に倒れ、更に植え継いだ松も安政年間(一八五四〜五九)に枯れ、三度植え継いだ松も明治の末頃枯れてしまい、その後「河畔の蒼松」に改名したが、これも関東大震災、第二次大戦の戦災で全焼してしまった。昭和三十七年十二月、これを惜しんだ浅草南部商工観光協会が、地元関係者とともに、この橋際に碑を建立した。現在の松は七代目といわれている。
  平成十一年三月  台東区教育委員会」

  
 

「絵本江戸土産 首尾の松 大川端 椎の木屋敷」

 挿絵には、
 「隅田川の末流 吾妻橋と両国橋の中間 西の岸にあり 一株の小松屈曲なし
  枝は水面に垂れて 遠望すれば龍の蟠るにも似たり」とあります。

 屋根船の上に、竹垣からはみだした首尾の松の枝が垂れ下ります。
 椎の木屋敷とは、平戸新田藩松浦家の上屋敷のことで、現在の同愛記念病院の場所に当ります。
 鳥越の平戸藩松浦本家は、正月に松が入手できず椎の木を門松に見立てました。
 分家の本所松浦家もこれにあやかり椎の木を植え、首尾の松とともに隅田川の名所でした。
 下流の遠景には両国橋が描かれています。

  
 

「名所江戸百景 浅草川首尾の松御厩河岸」(広重)

 竹垣からはみ出した首尾の松の下に浮かぶ屋根舟は簾を下しています。
 舟先には、二足の履物が置かれています。
 簾には芸者らしき影がうっすらと見えます。
 障子をはめ込んだ小部屋付きの屋形船は江戸初期に現れ、天和2(1682)年に幕府の大型船規制により、
 代わりに登場したのが2人スペースほどの屋根舟です。
 屋根舟には障子がなく、簾が吊ってあるだけのものです。逢引、密会などにも賑わいました。

   
 

「江戸名所百人美女 首尾の松」(豊国・国久)

 こま絵に首尾の松が描かれています。
 広重「名所江戸百景 浅草川首尾の松御厩河岸」では、
 舟先に二足の履物が置かれ、屋根舟は簾を下し、簾には芸者らしき影が見えます。
 こちらの屋根舟は、芸者が簾をあげて釣りを楽しんでいます。左手に釣竿がもう一本垂れています。
 この辺りは石材を積んだ船が沈んで石材が岩礁となり魚が多く釣りの名所でした。
 屋根舟は逢引、密会などに賑わいました。
 広重の名所江戸百景を強く意識した作品と思われます。

   
 

「絵本隅田川両岸一覧 首尾松の鉤舟 椎木の夕蝉」(北斎 風俗絵巻図画刊行会 大正6(1917)年)

 首尾の松の下で釣りを楽しむ男女を葛飾北斎が描いています。
 御厩河岸上流の浅草川は禁漁(殺生厳禁)でしたが、御厩河岸下流の御蔵前は釣りが可能でした。
 御蔵前は石材を積んだ船が沈んで石材が岩礁となり魚が多く、御蔵前は釣りの名所でした。
 右奥の向岸を拡大すると、椎木屋敷の椎木と、右手に道の真ん中に駒留石が描かれています。

   


蔵前橋碑

 「首尾松碑」の隣に、東京都の蔵前橋の説明石碑があります。

   

(蔵前橋碑文)
「蔵前橋
 蔵前(くらまえ)の名は、幕府の御米蔵がこの地にあったことに由来する。その蔵の前の地というのが、地名にもなったのである。
 この御米蔵は、元和年間に大川端を埋立てて建てられたが、盛時には、数十棟もの蔵が建ち並んでいたという。ここに関東各地から舟運によって、米が集積されたのである。
 近代になって、政府関係などの倉庫となり、その中には浅草文庫という書庫などもあった。
 蔵前の地は、札差たち江戸商人発展の地であり、いきや通のあふれた土地柄となってきた。近代においても、大震災や戦災などの惨禍をのりこえて、種々の商品の問屋街として繁栄をつづけてきている。
 大震災復興事業の一環として、新しい構造の橋が、昭和二年(一九二七年)に完成して、今日に至っている。
  昭和五十八年三月  東京都」

  
 

 <葛飾北斎錦絵>

  葛飾北斎の錦絵「富嶽三十六景 御厩河岸より両国橋夕陽見」のパネルがはめ込まれています。
  銅板で見にくいので国立国会図書館蔵書からの引用です。

    


富士見の渡し(蔵前の渡し)

 富士見の渡しは、蔵前橋の下流、蔵前工業高校と同愛記念病院あたりを結んでいました。
 船の上から富士山がよく見えたことから、この名がついたと言われます。
 蔵前側は、かつて江戸幕府の浅草御蔵があった場所で、御蔵の渡しとも称されました。
 震災後、新たな蔵前橋が架けられ、渡し舟は廃止となっています。
 江戸時代にはなかった渡しで(と思う)、明治となり浅草御蔵が廃され、
 新たに浅草御蔵跡に渡し場が設けられたのではないでしょうか。
 

「清親畫帖 大川富士見渡」(小林清親 明治13年 国立国会図書館蔵書)

 浅草御蔵跡に設けられた富士見の渡しから下流を見た光景に思えます。
 下流右手は鳥越川の河口部でしょうか。遠景に両国橋が見えます。

  
 

「東京名所 本所富士見の渡し」(井上探景(井上安治) 国立国会図書館蔵書)

 同じ場面を弟子の井上探景(井上安治)も描いています。

  
 

「東京風景 両国代地富士見の渡し」(小国政 明治26年)

 こちらも明治の富士見の渡しが描かれています。柳橋の奥に富士山が見えます。
 向岸の右手に見える煙突は何でしょう?浅草火力発電所の稼働は明治28年だから違うんでしょうけど。

  


御厩河岸の渡し(三途の渡し)

 陸路での米の運搬には馬が必要なため、浅草御蔵の北側に厩が設置されていました。
 厩橋の下流、浅草御蔵の北端に「御厩河岸の渡し」と呼ばれる渡し場がありました。
 渡しはいつも満員で転覆事故が多く、別名「三途の渡し」と呼ばれていました。
 

「江戸名所図会 御厩河岸渡」

 舟の角度から、向岸は渡し場のだいぶ下流を描いていると思います。
 その向岸に、「椎木やしき」「駒留石」「駒留はし」とあります。
 「椎木屋敷」の南隣は本庄松平伯耆守の下屋敷(現・旧安田庭園)で、
 この両屋敷の間の道のど真ん中に「駒留石」があります。ちなみに、本庄家初代の宗資は、桂昌院の弟です。
 川柳に「伯耆先掃除の度に邪魔な石」と詠まれるほどに有名でした。
 駒留石は、現在は旧安田庭園内に移設されています。

   
 

「江戸切絵図」

 「浅草御米蔵」の隣に「御厩河岸之渡」の記載が見えます。
 渡し先には石原町の阿部氏の屋敷が描かれています。

  
 

「絵本江戸土産 御厩河岸 駒形堂 金龍山遠望」(広重)

 「御厩河岸」から隅田川上流の駒形堂、浅草寺方向が描かれています。

 挿絵には、
 「両国橋より北の方凡そ八町の上にあり この渡し場の川中に至れば遥かに見ゆる筑波の嶺
  隅田川の屈曲せる岸に真白きき駒形堂 梢を貫く五重の塔はこれ金龍山浅草寺
  実に比なき光景なり」とあります。

  
 

「名所江戸百景 御厩河岸」(広重)

 向岸に見えるのは「石原橋」(現存せず)です。現在の横網2丁目12番地の入堀に架かっていました。
 船上の二人は夜鷹(私娼)で、濃い化粧で表現されています。
 夜鷹は、黒の着付けで白木綿の手拭いをかぷり、端を口にくわえ吹きさらしにする姿が定形でした。
 横に控える男は妓夫(ぎゅう)(客引き、用心棒)で、牛、牛夫とも書き、牛太郎とも呼ばれました。
 夜鷹は石原橋奥の本所吉田町の裏長屋に住み、隅田川を越えて商売をしていました。

  
 

「絵本隅田川両岸一覧 榧寺の高燈籠 御馬屋川岸乗合」(北斎 風俗絵巻図画刊行会 大正6(1917)年)

 御厩川岸の渡しを描写しています。
 嘘言皮成「志けりあふ色萌黄能榧寺に 火燭と見ゆる燈籠の影」
 蜀錦園蔓人「ろ能の音に雁こきませてわ多し船 あとの可先へあかるのり合」とあります。

 画面左上にはみ出した高い竹竿のてっぺんに燈籠が掲げられています。
 これは榧寺の盆名物の高燈籠で、仏の目印として高く掲げたほうが良いとされていました。
 現在も榧寺には、高さは足りないものの、そっくりの高燈籠があります。

   
 

 葛飾北斎の隅田川両岸の錦絵は全部繋がって描かれていて、
 首尾の松の錦絵と繋げて見ると、向岸の位置関係がよくわかります。

  
 

「富嶽三十六景 御厩河岸より両国橋夕陽見」(葛飾北斎 高見沢木版社 昭和11(1936)年)

 左に両国橋、両国橋の先の遠景に富士山、柳橋右岸左岸の料理屋から明かりが漏れいでています。
 右横は浅草御蔵で明かりは一切ありません。
 手前の本所側から見た絵です。
  両国橋が間近で、対岸に柳橋が描かれているので、御厩河岸の渡しより下流の横網の渡しでしょうか。
 舟上の男の風呂敷に、版元永寿堂の商標「三ツ巴紋」が入っています。
 北斎の浮世絵には宣伝が時折見られます。

    
 

「江戸名所道化尽 四十一 浅草御厩川岸」(歌川広景)

 足場を組んで、土蔵の壁に漆喰を塗っている職人たち。
 上にいる職人が漆喰の盛り板を落とし下にいる職人の頭に命中し、ひっくり返って箱の中に転んでいます。
 タイトルが浅草御厩川岸なので、浅草御蔵の補修でもしているのでしょうか。

  

 「足代(あししろ)の不二」(富嶽百景 北斎)
  富士山を背景に、同じ場面の絵があります。ネタ本でしょう。
  北斎の絵は隅田川の左岸ですが、広景の絵は隅田川の右岸です。

   


戻る