○ 参道
・せだがや界隈奨励賞
・ゴールドポスト
・庚申塔
○ 総門
・新東京名勝選外十六景
○ 東門
○ 六地蔵
○ 閻魔堂
○ 開山堂
○ 三十三観音堂
○ 仁王門(紫雲楼)
○ 庚申塔
○ 奥沢城跡
○ 鷺草園
○ 本殿
○ 三仏堂
○ 墓地
延宝6(1678)年に珂碩上人が開いた寺で、九品山唯在念佛院浄真寺と号します。
三仏堂に計九品の阿弥陀如来像が納められ、九品仏として著名です。
「江戸東京四十四閻魔」の第24番です。
この地は、中世世田谷を治めていた吉良氏または同氏の家臣である大平氏の居館であった奥沢城跡と伝えられています。
「江戸名所図会 奥澤村浄真寺九品佛」
描かれている堂塔の配置は現在もほとんど変わりはありません。仁王門や本堂など江戸時代に建てられています。
閻魔堂が参道の右手に描かれているのが現在は参道の左手に存するぐらいです。
「せたがや界隈賞
世田谷区では、昭和59年から平成4年までの隔年で、区民の皆さんに愛され、親しまれている世田谷区の街なみ形成のモデルとなる、魅力的な界隈を「せたがや界隈賞」として表彰してきました。
「九品仏参道界隈」は浄真寺境内と参道周辺で良好な界隈が形成されていることから、昭和63年に「第3回せたがや界隈奨励賞」として表彰しました。
おもいはせの路
おもいはせの路とは、玉川地域の緑と水の資源や歴史・文化資源をめぐるルートを、散歩道として提案したものです。
この路には季節や時の流れとともに表情を変える古代から現代までのさまざまな顔が見えます。
この路を歩くとき、人はいろいろと思いをはせるということで、この名を付けました。
友達と、恋人と、親子で、夫婦で、あるいは一人で歩いてみてはいかがですか。
切り絵 後藤仲行」
東京2020大会において、金メダルを獲得した日本代表選手等にゆかりある地域の郵便ポストを金色に塗り替える「ゴールドポストプロジェクト」が推進されています。
九品仏浄真寺参道入口にゴールドポストが設置されています。
「ゴールドポスト第72号 2022年2月17日設置
青木雄介監督(フェンシング男子エペ団体)」
「禁銃獵 警視廳」
明治32(1899)年と刻まれています。
参道左手に、8基の石塔・石仏が並んでいます。
・文政5(1822)年銘の三界萬霊塔。
・庚申塔道標。左側面「九品仏道」、右側面「新田池上道」
・延宝8(1680)年銘の三猿庚申塔。正面「奉寄進庚申供養」
・地蔵菩薩像
・寛文12(1672)年銘の庚申塔。
・明和○年銘の善光寺講の供養塔。
・文化11(1814)年銘の善光寺講の供養塔。
・文化8(1811)年銘の文字庚申塔道標。
「九品佛浄眞寺總門」
総門の扁額は「般舟場」
「新東京名勝 選外十六景
奥澤 九品佛」
報知新聞社が昭和7(1932)年に「新東京八名勝」を投票で選定、その選に漏れた十六名勝の記念碑です。
「九品佛道」
(説明板)
「創建の由来
当山はひろく「九品仏」の名で親しまれているが、正式には「九品山在念仏院淨眞寺」といい、浄土宗に属し、境内約12万u(3万6千坪)は往古の面影を保存する都内有数の風致地区である。開山は江戸時代初期の高僧「珂磧上人」で、四代将軍徳川家綱公の治世延宝6年(1678)に、奥沢城跡であったこの地を賜り、浄土宗所依の経典である観無量寿経の説相によって堂塔を配置し、この寺を創建された。「江戸名所図絵」に描かれている堂塔の配置と現状とはほとんど変わりはないが、昭和40年に本堂・仁王門とも茅葺を銅板葺に改修した。」
【東門】
東門は車も通行できる門で、門を入った左右に駐車場があります。
寺号標「浄真寺」
六地蔵の台座には天保4(1833)年とあります。
江戸名所図会には「ゑんま」は参道右手に描かれていますが、現在は参道左手にあります。
三途の川を朱色の橋で渡ります。橋の手前に地蔵がおられるので賽の河原でしょうか。
閻魔大王は、賽銭を入れると話します。
奪衣婆/懸衣翁
「極楽浄土」「大叫喚地獄」
「極楽浄土」「等活地獄」
<愛心講講元 鳥海はま先生頌徳碑>
<三界萬霊塔>
虚空蔵菩薩像が乗っている江戸十夜講の三界萬霊塔です。文政4(1821)年の造立。
<禁銃獵 警視廳>
明治32(1899)年と刻まれています。
<宝篋印塔>
<薬医門>
「珂然和尚編珂碩上人行業記に曰く〜」
(説明板)
「開山堂
当寺開山珂碩上人のお像を安置する。このご尊像は上人自彫のもので、お姿は合掌する上人御年42歳のときのものである。この像も文化財に指定されており、万治元年(1657年)上人が、如来のお告げ三度により、水鏡に御姿をうつし彫刻されたものであって、古来より安産・厄除・開運としてひろく信仰をあつめている。なお、開山堂では、上人のご命日に当る毎月七日の開山忌に開扉して、午後一時より法要とご法話及び写経が催されており、一般の方の参加を望んでいる。
上人は元禄7年(1694年)10月7日、御年七十七歳にて示寂され当山の西北にその御廟がある。」
<手水舎>
手水鉢には寺紋の「龍胆車」が刻まれ、
手水鉢の後方上には伝説の鷺草のオブジェが飾られています。
<水子地蔵尊像>
「水子(子育)地蔵尊像建立趣旨」
<浄大供養地蔵>
標柱「珂硯上人開山堂」
上人のご命日に当る毎月七日の開山忌に開扉されます。
石階下には「西国三拾三番札所供養塔」(明治14(1881)年)があります。
観音堂は奥沢神社の前々代の本殿で明治期に浄真寺に移築されています。
三十三体の観音菩薩群が並んでいます。
昭和5(1930)年造立の馬頭観音塔があります。
左「如意輪観音像」/右「千手観音像」
「紫雲楼」と呼ばれている仁王門(楼門)で、寛政5(1793)年の建立です。
扁額は「紫雲樓」とあります。
「金剛力士像」/「風神」「雷神」(文化3(1806)年造立)
(説明板)
「仁王門
重厚荘重なる仁王門(山門)は別名「紫雲楼」とも呼ばれ寛政5年(1793)の建立である。
一対の仁王像、桜上に阿弥陀如来とニ十五菩薩像が安置されているほか、風神・雷神の像もあって、寺域全体の安全が意図されている。」
(説明板)
「紫雲桜(仁王門)桜上のニ十五菩薩
当山に参詣される人々は、この桜上に安置してある阿弥陀如来とニ十五菩薩に迎えられて、三仏堂へと足を運ぶことになる。すなわち紫雲の門より内は荘嚴の浄上(彼岸)であることを示している。この桜門は寛政年間の建立である。当山の伝統相続行事である「ニ十五菩薩来迎会」(お面かぶり)は無形文化財に指定せられ、この桜上のニ十五菩薩は、来迎の真髄を示現していることになる。」
庚申塔4基と「玻璃摩権現」です。
元禄3(1690)年銘、享保4(1719)年銘、元禄17(1704)年銘、享保6(1721)年銘と庚申塔が並びます。
元禄17年3月に宝永に改元していますが元禄17年5月とあります。
本郭があった土塁で囲まれている場所を聖域とし、その入口に仁王門が造られています。
仁王門の横に、標柱「奥澤丈跡」が建てられています。
(説明板)
「境内
境内周辺の土手はこの地がかつて奥沢城であったときからの名残りで、鎌倉期における築城学上「土塁」の形態を示すものとして貴重な史料である。境内には古木が多く、カヤ(天然記念物)の大木は推定樹齢七百年以上、またトチ・高尾マキ・菩提樹およびイチョウ(天然記念物)、など古大木があり、つねに参拝する人々が絶えない、武蔵野の面影を残存する霊域である。
参道・惣門・閻魔堂・仁王門・鐘楼・開山堂・本堂・三仏堂・書院・食堂などいわゆる七堂伽藍の完備した僧房として数少ない寺院である。また寺域全体が極楽往生の様相に形どられ、弥陀三六の願いに即して、境内3万6千坪、三仏堂各堂丸柱三十六柱、本堂ケヤキ柱三十六柱、さらに三仏堂と本堂のあいだ三十六間というように細部にわたって往生にちなんだ数字があてはめられ、いちど九品仏境内に歩をはこび参拝結縁したならば、往生浄土の信心を得ることができるという願いがこもっているのである。このような緑の境域は周囲の変化にともない次第に失われてゆく都内の現状の中できわめてたいせつなものである。将来ともこの風致を永く保存したいと念願いたしておる次第である。」
梵鐘は宝永5(1708)年の製作です。
(説明板)
「鐘楼
仁王門とは対照的に、流麗な建築手法を示す鐘楼は関東でも名桜の誉れ高く、宝永5年(1708年)の建立である。梵鏝は文化財に指定されており、今に残る深沢の名家谷岡氏の御先祖がニ親菩提のために鋳造され(宝永5年)当山に寄進されたものである。また楼の四周に刻まれた十ニ支は作者不詳であるが、名作として特に有名である。毎年大晦日より元旦にかけて、除夜の鐘に遠近の参拝者でにぎわっている。」
境内の参道右手に「世田谷区立鷺草園」があります。
(標柱)「世田谷区立鷺草園」
(説明板)
「鷺草について
鷺草(昭和四十三年八月一日、区の花に指定)=[ラン科]は陽の当たる湿地原野に生える多年生草本で七〜八月頃、高さ二○〜三○センチの茎に純白の花を咲かせ、その形が飛んでいる鷺の姿に似ているところからこの名前がついたものと思われます。
区内では大正の末頃まで九品仏周辺の奥沢田甫に自生し奥沢には「鷺の谷」・また地続きの目黒区自由ヶ丘には「鷺草谷」という小字の地名がありました。この鷺草にまつわる悲話もいくつか伝えられておりますのでその一つを御紹介します。
「室町時代世田谷城主吉良頼康には、家臣の奥沢城主大平出羽守の娘で常盤姫という美しい側室がいて頼康の愛を一身に受けていたが、古くからいる側室達が、これをねたんで常盤が不義をしたとあらぬ告げ口をしたので遠ざけられた。悲しんだ常盤は幼い頃から愛育した白鷺の脚に遺書を結びつけ、両親の住む奥沢城に放った。たまたま奥沢城附近で狩をしていた頼康が白鷺を射落したところ脚に手紙が結んであったので開いてみると常盤の遺書であった。頼康は驚いて急いで帰館したがときすでに遅かった。白鷺の射落された場所から一本の草がはえ、やがて鷺に似た可憐な花をつけたのです。 世田谷区」
(説明板)
「サギソウ(鷺草)
花を見た人はきっと名前にうなずいてしまうサギソウ。
花が鳥のサギが羽根を広げた様子にそっくりなのでこの名前がつきましたが、これは3枚ある花弁のうちの1枚で、ラン科植物に独特の唇弁とよばれるものです。がく片は緑色で3枚あり、花のうしろに長い距がつき出します。地下に小さな球根があり、花の頃から数本の匐技をのばし、その先に新しい球茎をつくり、繁殖します。斑入りの銀河という園芸品種もあります。
サギソウの自生地は、現在少なくなっていますが、おもに本州〜九州の低地の湿地に生え、食虫植物のモウセンゴケ類、ミミカキグサ類などとともに生育しています。かつては世田谷区にも自生があったと言われています。花期は7月中旬?
9月上筍で、地域によって違いがあり、南に行くほど遅くなると言われています。
みどりとみず政策担当部
公園緑地課 玉川公園管理事務所」
<吉岡富士洞句碑>
鷺草を詠んだ吉岡富士洞の句碑があります。
「天碧き日は 鷺草の天に翔つ 富士洞」
「都天然記念物 九品仏のイチョウ」
<植松壽樹歌碑>
「掃きよせて 落ち葉焚く間も銀杏の樹 やまずしこぼす 黄なるその葉を」
<仏足石>
(説明板)
「仏足石
大聖釈尊の御入滅後、仏陀礼拝の形式として、その御足に対して、接足作礼により人々は衷心慕情の誠を示した。御人滅後およそ六百年、仏像が創まり、それが広範におこなわれるまでの永い年月、仏足石礼拝は重く用いられたのである。当山の仏足石の中央に千福輪相(法輪)が刻されているが、麾減している。天保年間のもので、近年その土台を補修した。」
<半跏思惟地蔵菩薩>
<花供養塔>
毎年5月第3日曜日に花供養が行われています。
<平和の塔>
台座「超世無倫」と刻む「和」と刻まれた石碑です。
昭和40(1965)年の建立です。
<河口慧海師碑>
「我国最初のヒマラヤ踏破者〜」
<白鷺>
「本堂(龍護殿)」前の「白鷺」です。
<本堂(龍護殿)>
扁額「龍護殿」
本尊の釈迦如来像(宝暦10(1760)年再建)は東京都文化財です。
「おびんずる尊像」
「五劫思惟像」世田谷区文化財
「九品(きゅっぽん)」お寺のゆるキャラです。
(説明板)
「本堂
本尊に珂碩上人御自作の釈迦牟尼如来(文化財)を安置し、当山第ニ世珂憶上人代、元禄11年(1698年)三仏堂ともども上棟した。世に珂憶造りと称せられ、雄大壮重なる茅ぶきの大殿である。近時、往昔の面影そのままの銅板葺に大修築を完了した。
本堂はまた「龍御殿」ともいわれ、浄土(彼岸)を表象する三仏堂に対比し、西面して穢土(此岸)をあらわす。当山独特の行事である「来迎会(おめんかぶり)」は、この本堂(此岸)と三仏堂中央の上品堂(彼岸)とのあいだに橋をかけ、阿弥陀仏とニ十五菩薩が、来迎・往生・還来と3回橋を行道するものである。」
九品の阿弥陀如来像は東京都文化財に指定されています。
<下品堂>
下品下生佛像が令和六年から二ヶ年間、御遷座中(修繕中)です。
<上品堂>
<中品堂>
(説明板)
「九品仏と三仏堂
珂碩上人(1617〜94)は、念仏行者として一代の高僧であるとともに、また非常に彫刻に秀でられ、その彫刻された仏像も多数におよんだ。なかでも、18歳で発願、51歳のとき完成した九躰の阿弥陀如来像(九品仏)は上人畢生の結晶といわれる代表作で、未代衆生化益の尊い御仏像である。九体とも文化財の指定をうけ、上品堂(中央)・中品堂(右)・下品堂(左)の三つのお堂(三仏堂)にそれぞれ三体ずつ安置してある。
上品堂のうち、中央を上品上生仏、右を上品中生仏、左を上品下生仏とする。中品堂、下品堂と同様で、したがって阿弥陀さまには、上品上生から下品下生まで九つの名があり、それぞれ手の位置および印契が異なっている。なにゆえに阿弥陀さまに九品の差別があるのか、一つには私たちの浄土教入信の過程・段階を、二つには念仏によって浄化される私たちの心の様態を示し、三つには往生人たるわれわれの機根を分類したのであって、私たちが念仏信仰に入るときの動機から、段々念仏によって身と口と意の三つが浄化されてゆき「生けらば念仏の功つもり死なば浄土にまいりなんとてもかくてもこの身には、思い患うことぞなき」という念死念仏の心境に至る道程を示したものということができる。京都府下の浄瑠璃寺(九体寺)とともにわが国における東西の九品仏像の双璧である。」
(説明板)
「来迎会(おめんかぶり)
当山には、ひろく「おめんかぶり」の名で親しまれる行事がある。これは三年ごとに奉修される阿弥陀如来ニ十五菩薩「来迎会」のことで、無形文化財に指定されている。
念仏業者が臨終の夕ベに、阿弥陀さまがニ十五の菩薩さまをしたがえて西方浄土よりご来迎になるという、浄土の教えを行事にしたもので、その日は三仏堂から本堂への懸橋を信者の方々が菩薩のお面をかぶって行道する尊くもまた厳粛な儀式である。
このおめんかぶりは、三年に一度の行事であり、5月5日の午前11時・午後4時の1日2回おつとめする。関東においては、当山のみの行事であり、ぜひ一度御結縁あらんことをおすすめする。
なお、毎年8月16日当山の法宝物を一般公開しているので御来観ください。」
(説明板)
「三仏堂修覆
元禄11年〜12年にかけ建立されたこの三仏堂も、安政・大正の地震の災厄により甚大な損害をうけ、そのつど補修したが、昭和58年10月7日珂碩上人の第290年忌の勝縁に際し、大修覆工事をおこない、創建当時の偉容を再現した。
九品の阿弥陀如来像を奉祀してあるのは、九躯寺(浄瑠璃寺)と当山のみである(都有形文化財)。」
<阿育王塔>
(説明板)
「阿育王塔
阿育(あしょか)王は、紀元前三世紀のインドの王で、仏教を国教とし、慈悲の教により国民に臨み、その恩徳国内に満ちたといわれる。インド各地に今も残る釈尊の遺跡に多くの石柱を建立して顕彰の誠を示された。現今のインドの国旗は、この石柱の頭部の法輪である。当山の王塔は、日本様式であり、天保年間のものである。」
<加藤楸邨の句碑>
「しづかなる 力満ちゆき はたはたとぶ 楸邨」
<天皇陛下御手植松>
「開山歴代上人御廟」
「本堂 石墻建立供養塔(文化12年)(左)
墓碑(中央)
本堂永代畳替資料(右)」